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論理的間違いの実例part6

今回の主題は「論理的思考から脱却」について。 情報不足を理由に「論理的な考えから脱却しないといけない」とすることが、論理的思考と逆行している*1ことについて。 また、情報不足は口実であって、本当の理由が別にあることについて。

潔さ

考察サイトをいくつか見てきました。有名どころからマイナーなところまで……といっても、10に満たない数ですが。
結構深いところまでやっている方が多いようで。わからないものは放っておいた、私の考察は甘かったようです。
しかしながら、いくつか考察を見ても納得できるものは少なかったです。
中にはこの考察はないだろうというひどいものまでありました。
論理的には矛盾の少ないように説明しているように見えて、その実、論理性の矛盾があるにもかかわらずそれを隠しているだけ。それなのに、あたかも論理的な文章だと公言さえもする……あんなひどい考察、初めて見ましたよ。

具体的に何処のサイトを指しているのかも、その内容も分からないので、この文章で示された事実関係が正しいかどうか、検証しようがないが、以下、正しいという仮定において、話を進める。

行為の是非はともかく、矛盾を上手に隠して見えないようにしているなら、「論理的な文章だと公言」するのは普通の行為だろう。 あると認めるくらいなら、初めから隠したりはしない。 隠せてないのに無いと公言するのは荒唐無稽だが、見つからないように上手に隠せているなら無いと公言しても、何もおかしくはない。

むしろ、隠された「論理性の矛盾がある」と公言しながら、隠された矛盾を具体的に暴けない方が「ひどい」だろう。 断言するだけなら誰にでも出来る。 しかし、その断言したことを、検証可能な形で他人に示せないのは無責任だろう。 それでは、言い掛かりで非難している疑いがある。

一方で、この方が読んで「論理性の矛盾がある」と言っているのだから、「論理的な文章だと公言」した人は、主張内容を検証可能な形で他人に示していることになる。 でなければ、どうやって、この方は「論理性の矛盾がある」と見抜いたのだろうか。 たとえ、「矛盾の少ないように説明しているように見え」るように偽装したとしても、その偽装を検証できるように詳細を明らかにしているのだから、実に、潔い行動であろう。

前述したように、主張内容の詳細が分からない以上、どちらの言い分が正しいかは判断できない。 しかし、以上のように、どちらの姿勢が潔いかは火を見るよりも明らかだろう。

さらに深く検証する。「論理的な文章だと公言」した人が主張内容を検証可能な形で他人に示しているならば、その人は、自画自賛が無意味であることを理解しているはずである。 何故なら、理解しているからこそ、主張内容を検証可能な形で示しているのだから。 だとすると、この方の指摘するような自画自賛があったとするのは不自然極まりない。 きっと、別の意図で書かれた文章を、この方が自画自賛的意味に誤読したのではないかと思う。

主観的評価の意味

自画自賛は、主観的評価の一種である。それは、自分自身を極端に依怙贔屓する主観的評価である。 しかし、そうした主観的評価に何か意味があるのだろうか。 「俺はイケメン」だとか「賢い」とか「若い」だとか「痩せてる」だとか「フサフサ」だとか、自分に対する賛辞をどれだけ並べようとも、現実の自分が向上するわけではない。 言ったことが魔法のように現実になる、そんな都合の良い話などあるわけがない。

同様に、相手を貶すときも主観的評価では意味がない。 「ブサイク」「ジジイ」「デブ」「ハゲ」と、いくら、罵詈雑言並べてみても、現実の相手がそのとおりになるわけではない。 やはり、言ったことが魔法のように現実になるような、そんな都合の良い話はない。

しかし、この方は、主観的評価に意味があると考えているようだ。 だからこそ、相手の主観的「公言」に言い返さないと気が済まないのだろうし、その方法として、「論理性の矛盾がある」や「ひどい」等の主観的評価を並べるのだろう。 だが、主観的評価に対して主観的評価で返しても、単なる水掛け論にしかならない。 それでは、何も言っていないに等しい。

本気で何か言い返すつもりなら、主観的評価を返すのではなく、具体的に何処がおかしいか指摘した方が良い。 そうすれば、少なくとも、多少なりとも意味のある発言にはなる。 本当に、「論理性の矛盾がある」のならば、そして、隠された矛盾を暴けるなら、相手をギャフンと言わせることができるだろう。

少なくとも、この方が読んで「論理性の矛盾がある」と言っているのだから、「論理的な文章だと公言」した人は、客観的検証に耐える発言をしているはずである。 それに対して主観的評価で返すようでは、初めから相手に敵うはずもない。

無責任

論理的な矛盾はあるかもしれないと明言している方はいいんですけどね。

そのような人は、無責任なだけであって、謙虚でも何でもない。 詳細は、マナーの原則の「意思疎通の限界」-「高圧的態度とは?」あたりに詳しく書いてある。

そのような言い訳をする人に限って、自分の主張の根拠が崩れても、間違ってる根拠が示されても、絶対に自分の過ちを認めない。 自分の正しさを証明できないくせに、自分は絶対に正しいと主張したいからこそ、このような言い訳をするのである。 自分が謙虚であるとアピールしたいのか、非難されたくないから良い子ぶってるのか、人に言われる前に先手を打って自分を卑下することで自己防衛しているのか、いずれにせよ、他人に対する思い遣りの欠片もなく、自分だけが可愛いことに変わりがない。

本当に自らの過ちと真摯に向き合う覚悟のある人は、このような言い訳をする前に、まず、自分の主張をしっかりと検証する。 根拠が正しいと信じるうちは自信を持って断言しながらも、根拠が崩れれば素直に間違いを認める。 そういう人であってこそ信用に値する。自信満々に言っていても、その自信が徹底的な自己研鑽に裏打ちされていて、かつ、他人の指摘には真摯に耳を傾け、過ちがあれば正そうとする人こそ、本当の意味での謙虚な人だろう。

そもそも、可能性を絞り込もうとするからこそ、そのような言い訳をしなければならなくなるのである。 可能性を絞り込むための言い訳が、可能性を広げるものであるなら、主張内容が自己矛盾している。

本当に謙虚な人は、不特定多数を相手にすることの意味を理解し、情報がなるべく正しくなるように不断の努力をする。 間違ってるかも知れないのを承知しながら、間違いを正す努力もせずに、軽々しく発信するようでは、謙虚さが全く足りない。 サイト訪問者にとって重要なことは、書かれた内容とその信憑性であって、記述者の言い訳ではない。 そして、正しい物言いをする努力の達成度が、情報の信憑性に繋がるのである。 謙虚な人ほど、そうした信憑性の向上に気を遣う。 その努力が足りないからこそ、間違ってるかも知れないなどとの、意味不明の免罪符を軽々しく掲げるのだろう。 そして、その免罪符こそが努力不足、すなわち、信憑性のない証拠であると、「免罪者」は理解していないのである。 一定程度の信憑性(どの程度の信憑性が求められるかは、個々の情報における需要と供給の関係で決まるので、一概には言えない)が確保できないのでは、何も言ってないに等しい。 それならば、初めから、何も言わなければ良い。

可能性と論理

それというのも、Remember11には完全なる答えを出すには情報が欠けているからです。つまり、いくら論理的に考えても答えには辿りつけない……どこかで論理的な考えから脱却しないといけないのです。
とはいえ、論理的思考から脱却すれば答えが出るというわけでもなく……私はこう考えます。
Remember11の考察において辿りつけるのは、あくまでも可能性のひとつでしかないと。

「論理的な考えから脱却しないといけない」と言いながら、それによって「辿りつけるのは、あくまでも可能性のひとつでしかない」のでは、言ってることが支離滅裂である。

まず、「可能性」を追求するのに、何故、「論理的な考えから脱却」できると言うのだろうか。 あり得る解答とあり得ない解答を篩分けするには、「論理的な考え」が必要なはずである。 それなのに、この方は、「論理的な考えから脱却」して、どうやって、その篩分けをするつもりなのか。 「論理的な考えから脱却」しながら、どうやって、「可能性」から外れないように出来るのか。 どうやって、間違った答えを掴まされないようにするつもりなのか。 この方は、その辺りの説明を一切していない。

また、「可能性」を「ひとつ」に絞り込まなければならない合理的理由は何ら示されていない。 「論理的な考えから脱却」しても「可能性のひとつ」にしか辿り着けないなら、 「論理的な考え」に従って「可能性」の全てを拾い上げた方がマシではないのか。 何故、「可能性のひとつ」以外の他の可能性を切り捨てなければならないのか。 その辺りの説明も全くない。

常識で考えれば、「完全なる答えを出すには情報が欠けている」状態で「可能性」を追求するならば、絶対に「論理的な考えから脱却」してはいけない。 そして、「可能性のひとつ」ではなく、可能な限りの全ての「可能性」の網羅するのが真っ当な姿勢だろう。 「論理的な考えから脱却」して、可能性から外れた「ひとつ」を選び出すのは最悪の選択である。 それは、この方自らが示した「適当な例え」の説明の中で、ご自身が認めていることである。

「適当な例え」

適当*2な例えを。
ここに三人の登場人物いるとします。α、β、γと仮定しましょう。αはナイフで刺されて死んでいます。βはナイフを持っています。γはそれを見ています。
さて、ここで問題です。αを殺した犯人は誰でしょう?
答えはひとつ。−−これだけの情報ではわからない、です。
考えられる大まかな可能性としては、三つ。
αが二人の前で自殺し、βがナイフを手にとってしまった。それをγが見ている。
βがαを殺害し、そのままナイフをてに持っていた。γはそれを目撃。
γはαを刺殺し、ナイフを床に置く。駆けつけたβがナイフを拾う。γはそれを隠れて見ている。
他にも細かな差異を考えると、答えは無数に存在するといっていいでしょう。
Remember11もこのような状態なのです。
プレイヤーの数だけ答えがある

話の主題とは直接関係はないが、論理的思考をするにあたって重要な指摘をする。 論理的思考にあたっては、前提事項を明確に整理する必要がある。 そして、前提事項が整理されていれば、「適当な例え」は、密室を前提としていないことが分かる。 だとすると、αでもβでもγでもない第四の「可能性」(犯人が3つの可能性のいずれとも違うから「細かな差異」ではない)もある。 「完全なる答えを出すには情報が欠けている」「いくら論理的に考えても答えには辿りつけない」状況を想定しているのだから、 それと同様に、登場人物の中に真犯人が居ないことは、当然、想定されるべきことであろう。 前提事項を整理するという論理的思考の基本を怠ったために、第四の「可能性」を見逃したのだろう。 とはいえ、話の主題とは直接的に関係がないので、第四の「可能性」については、これ以上の追求はしない。

論理の基本

以下、「適当な例え」を論じるにあたって、その前提となる論理について、何が「論理的な考え」で何がそこからの「脱却」なのかを説明する。 まず、「適当な例え」における「可能性」は次のとおりである。

  • αが二人の前で自殺し、βがナイフを手にとってしまった。それをγが見ている。
  • βがαを殺害し、そのままナイフを手に持っていた。γはそれを目撃。
  • γはαを刺殺し、ナイフを床に置く。駆けつけたβがナイフを拾う。γはそれを隠れて見ている。
  • δがαを殺害し、ナイフを床に置いた後、逃亡。駆けつけたβがナイフを拾う。γはそれを隠れて見ている。
  • その他

論理的手法によって、考察を進めるなら、物語中に、これらの「可能性」の蓋然性を左右する記述を探し出す必要がある。 例えば、この部屋にαβγ以外が入って来れない状態であったならば、第四の「可能性」は外して良いだろう。 例えば、【γが筋力低下を引き起こす病気にかかっていてナイフを持つだけの握力がなかった】ということが分かれば、γは容疑者から外して良いだろう。 このように、徹底的に描写を洗い直して、蓋然性を左右する情報をかき集め、それら情報を元に、全ての「可能性」の蓋然性がどの程度あるか推定する。 そして、全ての情報を精査した後、あり得ないと断言できる程、蓋然性が極めて低い「可能性」があれば、それは候補から外して良い。 そうして残った候補が一つならば、恐らくそれが正解であろう。 もし、それでも、複数の候補が残っていて、それ以上の情報が得られないなら、残った全ての候補を「可能性」として採り上げなければならない。 もちろん、それら「可能性」の個々の蓋然性も明示しておく必要がある。 例えば、「十中八九βが犯人だろうが、αによる自殺の可能性も否定できない」というように。

何の証拠も無く、「δが念力でαを殺した」と言い出せば、これは、正しく「論理的な考えから脱却」だろう。 これは、駄目な考察サイトで展開されている典型的な「論理的な考えから脱却」事例そのものである。 困ったことに、こうした考察をする人ほど、自分の考えを「可能性のひとつ」だと主張する。 しかし、あり得る「可能性」と荒唐無稽な「可能性」は同列ではない。 通常、荒唐無稽な「可能性」は、与太話として一蹴されるが、それは、決して、不当な扱いではない。 つまり、荒唐無稽な「可能性」では、あり得る「可能性」と肩を並べるだけの「可能性のひとつ」になっていないのだ。 例えば、火事が起きた時に、タバコの不始末説とパイロキネシス放火説を同列に検証したりはしない。 真面目に検証されるのは、タバコの不始末説等のあり得る「可能性」だけである。 パイロキネシス放火説のような荒唐無稽な「可能性」をあり得る「可能性」と同等に扱うためには、何からの合理的根拠に基づいて、荒唐無稽な「可能性」をあり得る「可能性」に引き上げなければならない。 例えば、犯人を自称する男が大勢の前でパイロキネシスを実演してみせたら、それは、十分な根拠になるだろう。 そうやって、あり得る「可能性」に引き上げられて、初めて、「可能性のひとつ」と呼べるのである。

フィクションにおいては、超科学設定は許容されているから、超科学設定というだけでは荒唐無稽とは言えない。 ただし、物語の条件に書いてあるとおり、超科学設定が許容されるのは先付け設定の場合だけである。 言い替えると、フィクションにおいては、先付け設定である証拠を示せば、あり得る「可能性」に引き上げる根拠と見なせる。 そうした根拠を示してから、他のあり得る「可能性」と同列に検証するならば、それは、十分に「論理的な考え」だろう。 もちろん、「可能性」を絞り込む場合には、先の説明したような論理的手順を踏まなければならない。 しかし、駄目な考察サイトは、そうした根拠を全く提示することなく、荒唐無稽な「可能性」を「可能性のひとつ」だと主張する。 そして、自らが持ち出した荒唐無稽な「可能性」を他の「可能性」と同列に扱わないのは非論理的だと逆ギレする。

この方の説明

この方は、先程、「完全なる答えを出すには情報が欠けている」場合、「いくら論理的に考えても答えには辿りつけない」場合は、「論理的な考えから脱却しないといけない」と明言していた。 そして、この方が挙げた「適当な例え」は、「完全なる答えを出すには情報が欠けている」場合であり、「いくら論理的に考えても答えには辿りつけない」場合である。 とするならば、この方の主張を真に受けるならば、この「適当な例え」は「論理的な考えから脱却しないといけない」事例であろう。 何故ならば、「論理的な考えから脱却しないといけない」場合の説明と前提条件が何ら変わっていないからである。 何かしら具体的相違点があるならば、違う考えを適用することもあるだろう。 しかし、全く同じ条件である以上、違う考えを適用するのでは一貫性がない。 もし、同じ条件に違う考えを適用するなら、それは、初めから結論ありきのコジツケになる。 すなわち、「論理的な考えから脱却」したい場合には「完全なる答えを出すには情報が欠けている」等の言い訳を用意しているのである。

この方が、そのような詭弁を用いていない前提で話を進めよう。 この方の主張に従うなら、「三つ」の「大まかな可能性」から、「論理的な考えから脱却」して、そのうちの一つに可能性を絞り込まなければならないはずである。 どうせ「論理的な考えから脱却」するならば、「δが念力でαを殺した」くらいのことは言ってもらいたい。 しかし、この方は、ここでは「可能性のひとつ」に絞り込むことを放棄している。 「論理的な考えから脱却しないといけない」と言いながら、「適当な例え」においては、 論理的思考に従って、「これだけの情報ではわからない」として、可能性を全てを拾い上げようとしている。 明らかな可能性の取りこぼしはあるが、姿勢としては全てを拾い上げようとしていることに変わりない。 そう、この方は、「適当な例え」と言いながら、「論理的な考えから脱却しないといけない」とする説明とは全く逆のことやっているのである。 つまり、この方は、全く同じ条件であるにも関わらず、その時の都合で、「論理的な考えから脱却」する場合としない場合の二枚舌を使い分けている。

このように、詭弁を用いていない仮定で話を進めると、詭弁を用いているという結論に達してしまう。 よって、背理法によって仮定が否定されるため、この方は詭弁を用いていることになる。

絞り込みの目的

「可能性」を絞り込まないなら、何の情報価値も無い。 1%の可能性のある答えを100個示したとして、それに何の意味があるだろうか。 0.01%の可能性のある答えを1万個示したとして、それに何の意味があるだろうか。 そのような可能性をいくら示そうとも、何も分からないと言っているに等しい。

例えば、算数のテストで二桁同士の正の整数の掛け算が出題されたとする。 その出題の答えの最小値は100、最大値は9801である。 では、回答欄に「100か101か102か・・・か9799か9800か9801」と書いたら、先生は点数をくれるだろうか。 常識的に考えて、部分点すら貰えないだろう。 何故、点数が貰えないか。 それは、問題を何も解いてないに等しいからである。 出題に解答することは、可能性を絞り込む作業である。 その絞り込みを全くしていないのだから、部分点すら貰えないのは当たり前である。 先の解答で点数を貰えないのだから、「100かもしれないし違うかもしれない」では論外だろう。 もちろん、「1か2か・・・か97か98か99」等のカスリもしない解答は言うまでもない。 可能性のひとつだけを示して他の答えの可能性を否定しない・・・なんてことは、何かを言っているように見せ掛けて、実は、何も言っていないのと変わらない。 部分点が欲しければ、せめて、答えを一定の範囲に絞り込むことが必須である。 それが、出来ないなら、何も解いてないに等しい。 この方は、それが分かっているからこそ、答えを絞り込もうとするのである。

絞り込みの方法

この方は、「可能性」を絞り込むにあたって、「論理的な考えから脱却」という手段を用いている。 それによって、正解にカスリもしない「可能性のひとつ」となる危険性をも省みない。 それは、何故か。結論から言えば、ただの横着である。 尤もらしい理由を付けて「論理的な考えから脱却」する人に限って、次のような傾向が見られる。

  • 初めから追加情報を探そうともせず、「情報が欠けている」と決めつける
  • 今ある証拠を十分に吟味せず、「いくら論理的に考えても答えには辿りつけない」と決めつける
  • 新しい情報が発見されても、それが持論の大幅修正を余儀なくするものである限り、絶対に認めない
  • 酷い場合になると、既に見つかっている情報さえ平気で否定する

情報不足が本当の理由なら、有力情報が掘り出された時点で、「論理的な考え」に復帰するはずだろう。 そうしないのは、情報不足だから「論理的な考えから脱却」したのではなく、「論理的な考えから脱却」したいから情報不足を言い訳にしただけだ。 徹底的に情報を洗い出して、それを元に、先入観なしに論理的に考察する・・・ことは面倒な作業である。 だから、やりたくない。 それよりは、創作理論に基づいた二次創作を膨らませた方が自己満足を得ることができる。 だから、初めから、論理的な考察を進めようなんて気は少しもない。 それが、安易に「論理的な考えから脱却」する人の本音だろう。

この方には、正解に近付こうという動機は全くない。 ただ、荒唐無稽な二次創作であろうが何だろうが、自分自身が楽しめさえすればいいのである。 これでは、とても、考察とは呼べない。 考察と自称するからには、正解に近付こうとする努力は必須であるし、そのためには「論理的な考え」は絶対に欠かせない。 そうした姿勢を欠いている出発時点で、この方の「考察」は明後日の方に行っている。

蓋然性の詐称

例えば、「俺は日本人だ。でも、それは間違ってるかもしれない。」には、「俺」の国籍を特定できないという情報しか含まれていない。 つまり、「俺の国籍は不明」と言ってるのに等しい。だったら、初めから「分からない」とだけ言えば良い。 それなのに、何故、こんな回りくどい言い回しをするのか。 それには、れっきとした動機がある。 それは、聞き手を混乱させたいからである。 日本人であることが特別な可能性ではないのに、あたかも、特別な可能性であるかのように印象づけようとしているのである。 もし、こんな言い回しを聞いたなら、「俺」は日本人ではないと疑って掛かった方が良い。 何故なら、その言い回しは、次の2つのことを同時に示しているからである。

  • 恣意的に他人の思考を特定方向に誘導しようとする動機がある
  • 正当な手段でその動機を満たすことができない事実がある

ようするに、「俺は日本人だ」と思わせたいのだが、その証拠が示せない。 つまり、証拠がないことを信じさせようとしているのである。 証拠があるなら、こんな回りくどい言い回しをする必要はない。 パスポートを提示するなりして、「俺」が日本人であることを示せば良いのだ。 平たく言えば、この言い回しは嘘つきの証拠である。 嘘つきの言うことは疑って掛かった方が良い。 もちろん、疑うことは間違ってると決め付けることではなく、騙されないように慎重に検討することである。

この方の言うように「プレイヤーの数だけ答えがある」なら、1万人がプレイしたゲームの答えは1万通りある。 そのうちの1つが正解であると仮定するなら、単純計算で正答率は0.01%となる。「答えは無数に存在する」正答率は、限りなく0に近い。

さて、考察サイトでは、「答え」を発表するにあたって、その蓋然性を明示しているだろうか。 「論理的な矛盾はあるかもしれないと明言」したとしても、それは言い訳にはならない。 何故なら、その表現は、80%や90%といった高確率には達してないことは意味していても、0.01%のレベルであることを全く意味していないからである。 百歩譲ってみても、その表現は、せいぜい、50%を超えていないことを示す程度の表現に過ぎない。

0.01%のレベルではないと明言していない・・・という言い訳も通用しない。 わざわざ「考察」と称して不特定多数に披露し、かつ、それを与太話であると明言しない以上は、その手の類いの「答え」とは一線を画するだけのある程度の高度な蓋然性を備えているのが暗黙の了解であろう。 少なくとも、0.01%レベルの「答え」を、与太話と明言せずに考察と称するのは、暗黙の了解に違反している。 暗黙の了解を逆手に取って、故意に、蓋然性を極端に高く見せ掛けているのだから、嘘をついているのと同じである。

「答えは無数」?

この方の言うように「プレイヤーの数だけ答えがある」の「答え」が全て正解であるためには、全てのプレイヤーは独自の正解に辿り着かなければ成り立たない。 つまり、全てのプレイヤーの考察は正解だということになる。

では、「Remember11は虐められっ子が未来から来た猫型ロボットに助けてもらう物語だ」という考察を発表したら、それは正解だろうか。 そんなわけはない。さすがに、ドラ●もんは違うだろう。 本編の描写と矛盾するのであれば、それは、間違いである。 つまり、「プレイヤーの数だけ答えがある」の「答え」が全て正解なんて事はあり得ない。

先程挙げた二桁同士の正の整数の掛け算の例で説明しよう。 掛け合わせる数値が判明していない場合は、100〜9801のいずれかの整数(素数等を除く)としか答えようがない。 Remember11は、そうした【正解をある範囲以下に絞り込めない】物語である。 しかし、その場合も、-100,0,1,9999のいずれもが不正解であると断定できる。 また、500,980等には正解の「可能性」があると言うことができる。 そして、もし、500が正解であれば、980は不正解である。 つまり、この場合の正解は一つしかなく、100〜9801の全て整数が正解として両立するわけではない。 だから、決して、回答者の数だけ正解があるわけではない。 フィクションの解釈に関して言えば、複数の解が正解として両立する可能性は否定できない。 しかし、やはり、回答者の数だけ正解があるわけではない

この方は、【正解をある範囲以下に絞り込めない】という事実を、【全ての考察が正解】であるかのようにすり替えているのである。 「論理的思考から脱却」したことによって正解から逸脱しているにもかかわらず、自己の考察を「可能性のひとつ」と見せ掛けなければならないから、「プレイヤーの数だけ答えがある」という詭弁を用いているのである。

まとめ

脱却して得られる物

「論理的な考えから脱却」しても、何も得られる物はない。 「脱却」して得られるのは、あり得ない「可能性」の山でしかない。 プロが意図的に残してくれたヒントがあるから、すなわち、プロが案内してくれるから、素人でも真相に辿り着けるのである。 「論理的な考えから脱却」とは、そうしたプロの案内を拒絶することである。 プロの案内なしに、素人考えだけで真相に辿り着けると思うのは、思い上がりも甚だしい。 仮に、素人考えだけで真相に辿り着けたとして、その程度の幼稚な真相に何の価値があるのだろうか。 素人考えだけでプロに匹敵する真相を用意できるなら、その人はプロの作家になれる。 いや、本編の描写を全く改変せずに辻褄を合わせられるなら、プロでも不可能なことを実現したことになる。 常識で考えて、素人にそこまで出来るはずがない。

酒鬼薔薇事件のとき、警察が一般からの情報提供を求めたら、役に立たない素人推理が殺到したと言う。 当時の新聞記事には、欲しい目撃情報等が集まらずに、求めていない素人推理ばかりが集まると、兵庫県警の嘆きが載っていた。 素人考えが役に立たないのは、誰でも考えつくような幼稚な考えや、突拍子もないが見当違いも甚だしい考えばかりだからである。 警察でも目撃情報等がなければ犯人に辿り着けないのに、一般人の素人推理が何の役に立つのか、冷静に考えれば分かりそうなものだ。 それでも、考えた人にとっては特別な物なのかもしれないが、他人から見れば、素人目に見ても荒唐無稽な物でしかない*3。 そんな物を意気揚々と発表するのでは、本物の色物物理学者と大差ない。

この手の人達は、自分が素人だという揺るぎない事実を忘れているようだ。 プロは素人の遥か上空の雲の上の存在である。 プロが伏線という名のヒントを用意して素人を導いてくれるから、素人でも真相に辿り着けるのである。 それなのに、何を勘違いして、プロの助けは不要などと思うのだろうか。 プロのお膳立てが99%あるから、非力な素人でも真相に辿り着けるのである。 己の非力さを理解してないようでは、真相の入り口に立つことさえままならない。

脱却して失う物

簡潔にまとめると、考察において必要な姿勢は次の2つである。

  • 無視できない「可能性」を切り捨てないこと
  • あり得ない「可能性」に惑わされないこと

一方で、「論理的な考えから脱却」すると次のようになる。

  • 重大な「可能性」を安易に切り捨てる
  • あり得ない「可能性」を無批判のまま鵜呑みにする

「可能性」の山に辿り着く唯一の道から「脱却」し、そこから遠ざかる道を選ぶのでは、あり得ない妄想に辿り着くのが関の山だろう。 それでは、「可能性のひとつ」になど、いつまで経っても辿りつけるはずがない。

「脱却」以前に論理を理解しているか?

この方は「論理的な考えから脱却」の欠陥に薄々感づいているから、「適当な例え」を出したのだろう。 しかし、「論理的な考えから脱却」と「適当な例え」が完全に相矛盾することに気づいていない。 そのために主張が「どっちやねん」と突っ込みを入れたくなるほど支離滅裂になっている。 これでは「論理的な考えから脱却」など不可能だろう。 到達していない「考え」から「脱却」することなど、何人も、できるはずがないのである。

図解

まずは、図を見てもらいたい。

possibility.png

このサイトで求める考察は、作品の描写から最大限絞り込んだもの=図中のCとする。 原則として、EやFやGまでは絞り込まない。 何故なら、Cの範囲内であるならば、そのうちのEやFやG、あるいは、その他の可能性のうち、いずれを選ぶかは読者の自由だからである。 このサイトは、そうした個人の自由への干渉は一切しない。 ただし、Cだけでは話が分かり難い場合に限り、可能性としてEやFやGを示すことはある。

もちろん、HやIやJについては、具体的描写等を根拠に明確に否定する。 Cの範囲を明確にする以上、その範囲から外れるHやIやJが否定されるのは当然であろう。

さて、世の中には、Cまでの絞り込みでは不十分と感じ、EやFやGを求める人もいるだろう。 結末が曖昧な作品については、EやFやGでなければ満足できないと感じるのはよく分かる。 しかし、よく考えてもらいたい。 Cを求めずして、EやFやGを求めることは出来ないのである。 EやFやGを求めるためには、その過程として、必ず、Cを求める必要がある。 その過程を省略すれば、HやIやJのように考察が迷走するだろう。

つまり、図中のCに可能な限り近付こうとすることこそが「論理的な考え」であり、「論理的な考えから脱却」とはCからの脱却である。 それでまともな考察などできるはずがない。

Last modified:2010/05/01 20:48:06
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*1 情報が有り余ってるときは、論理的思考なしでも真相に辿り着き易い。情報が不足するときほど、論理的思考抜きでは真相に辿り着き難い。

*2 三省堂国語辞典によれば、(1)ある状態・目的・要求などにぴったり合っていること。ふさわしいこと。また、そのさま。相当。(2)その場を何とかつくろう程度であること。いい加減なこと。また、そのさま。

*3 それをプロに見せようとするなんて、度胸があるのか、それとも、怖い物知らずなのか・・・