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プレイヤーの介入?

定義

メタフィクションの種類

現実世界と物語世界の境界(第四の壁)を超えて、一方が他方に介入する物語をメタフィクションと言う。 メタフィクションは次のように分類できる。

瑣末的メタフィクション
物語上の重要な設定とは無関係なメタフィクション。第四の壁を破るための説得力のある説明は不要。冗談目的である場合は、冗談が成立するために、説得力のある説明があってはならない。
劇中劇メタフィクション
物語世界と物語世界における劇中劇との間のメタフィクション。
片方向メタフィクション
第四の壁を破ることができるのは、現実世界の住人だけに限られ、かつ、作者以外には物語世界の法則を変えることはできない。物語世界の住人は、現実世界を認知することも干渉することもできない。
双方向メタフィクション
片方向メタフィクションを超えたメタフィクション。双方向メタフィクションはさらに、消極的双方向メタフィクションと積極的双方向メタフィクションに分類される。
消極的双方向メタフィクション
双方向メタフィクションを積極的に否定する描写を徹底的に排除しているが、積極的に肯定する描写もないもの。双方向メタフィクションを否定することはできないが、とりたてて説得力があるわけでもない。
積極的双方向メタフィクション
双方向メタフィクションを積極的に否定する描写を徹底的に排除し、かつ、積極的に肯定する描写を挿入したもの。現代科学では実現不可能。

メタフィクションの大部分は、瑣末的メタフィクションと劇中劇メタフィクションであろう。 ゲームにおいては、片方向メタフィクションが実現されるのは当然のことであるので、通常、片方向メタフィクションをメタフィクションとは言わない。

介入設定の種類

プレイヤーが主人公に介入する設定については、次のように分類できる。

常人的介入設定
片方向メタフィクションにおいて、プレイヤーが主人公に介入すること。
超人的介入設定
双方向メタフィクションにおいて、プレイヤーと主人公が相互に相手に介入すること。
消極的超人的介入設定
消極的双方向メタフィクションにおいて、プレイヤーと主人公が相互に相手に介入すること。
積極的超人的介入設定
積極的双方向メタフィクションにおいて、プレイヤーと主人公が相互に相手に介入すること。

実現性

片方向メタフィクション(常人的介入設定)

片方向メタフィクションでは、物語中で、荒唐無稽な出来事は生じ得ない。 実現は容易であるが、物語の展開には全く影響を与えないため、取り立てて言うほどの意味を持たない。 あっても無くても、どちらでも全く差し支えがない。

双方向メタフィクション(超人的介入設定)

消極的双方向メタフィクション(消極的超人的介入設定)

消極的超人的介入設定は、次の2つの原則を守らなければならない。

  • 読者と主人公の乖離を最小限に留める(乖離量の原則)
  • 一定以上の乖離が生じる場合は、読者が納得できる方向に乖離すること(乖離方向の原則)

尚、この2つの原則は消極的超人的介入設定にのみ適用される原則ではない。 メタフィクション以外の物語であっても、一定の説得力を持たせるためには必須の原則である。

まず、読者と主人公の乖離を最小限に留めることが重要である。 ただし、読者と主人公を完全に一致させる必要はない。 何故なら、乖離方向の原則を守る限り、後述するように、読者側が勝手に歩み寄ってくれるからである。 例えば、次のような乖離を防止するにはどうすれば良いか。

  • 読者は沈着冷静だが、主人公は慌てん坊
  • 読者は慌てん坊だが、主人公は沈着冷静

これは、読者が沈着冷静か慌てん坊を判定するための選択肢を設ければ良い。 単一の選択肢によらず、複数の選択肢を用いて総合的に判定すればより正確になろう。 この他、正義感や感情の起伏の激しさ等、物語の展開に重要な性質についてのみ、判定用選択肢を設ければよい。 些末な部分での乖離については、さほど、気にする必要がない。

それでも、避けられない乖離が生じる場合はどうすれば良いか。 その場合は、読者が納得できない方向への乖離を避けるようにすれば良い。 例えば、次のようなケースでは、どちらが読者の納得を得られるだろうか。

  • 読者は犯人やトリックを解明したが、探偵役の主人公は分かってない
  • 読者は分かってないが、探偵役の主人公は犯人やトリックを解明した

前者のような乖離が生じると、読者は、主人公を自分の分身と認めることが出来なくなる。 しかし、後者のような乖離の場合は、そうならない。 というのも、読者にとって憧れるような行動は、なりきりと呼ばれる特有の行動を引き起こすからである。 たとえば、ロッキーを見た後、ついつい、シャドーボクシングをしてしまうのは、なりきり行動の典型例である。 なりきり行動においては、読者の側から自発的に主人公に近付こうとする。 この場合、読者と主人公の乖離の大きさは問題とならない。 いや、むしろ、乖離が大きい方が好ましい。 重要なことは、乖離量ではなく、乖離方向である。 なりきり行動を引き起こすには、読者がそうしたくなるような主人公でなければならない。 読者が「いくら何でもそれはないだろ」「こんな奴にはなりたくない」と思うようでは、なりきり行動を引き起こせない。

積極的双方向メタフィクション(積極的超人的介入設定)

積極的双方向メタフィクションは、消極的双方向メタフィクションの条件の他、双方向メタフィクションを積極的に肯定する描写が必要となる。 積極的に肯定する描写としては、次のようなことを示唆する描写である。

  • 物語の中から物語の外の世界の情報を取り込むこと
  • 物語の中から物語の外の世界に対して、通常の干渉を超えた干渉を行なうこと
  • 物語の外部からの干渉が物語世界の法則に縛られないこと

たとえば、伏せたカードの山から選択肢に基づいてプレイヤーが1枚カードを選ぶとする。 ここで、何も見ていないはずの魔術師が貴方の引いたカードの内容を当てたとしよう。 これは、物語の中から物語の外の世界の情報を取り込んだことになるだろうか。 いや、魔術師は、物語内にあるカードの情報を取り込んだにすぎない。 伏せたカードの内容を言い当てることは、物語内で超能力を使った描写とはなりうる。 しかし、既に物語世界に反映させたことを読み取る以上、それは、物語の外の世界の情報を取り込んだことにはならない。 これは、伏せたカードのような形ある物にかぎらず、主人公の思考のような形の無い情報でも同じである。 一度でも物語世界に反映してしまった情報は、既に物語世界内部の情報なのである。 よって、物語の外の世界の情報を取り込むためには、選択肢に頼らずに情報を取り込む必要がある。 そんなことは、現代科学では不可能だろう。 ただし、催眠術的手法等を用いれば、物語の外の世界の状況を物語の中に反映させたように偽装することは可能である。 とはいえ、実際に催眠術的手法を用いたとなると、それはそれで、社会的に大きな問題となるだろう。 現実的に実現可能な範囲に限れば、物語の外の世界の状況を物語の中に反映させることは不可能である。

物語の中から物語の外の世界に対して、通常の干渉を超えた干渉も、現代科学では不可能である。 物語の出来事は映像や音声に反映されている。 そうした映像や音声を通じた物語の外部への干渉は常時行なわれている。 しかし、その種の干渉をメタフィクションとは言わない。 メタフィクションであるためには、そうした、通常の干渉を超えた干渉が必要になる。 しかし、現実世界に干渉するためには、ゲーム機のハードウェア機能として実装されている必要がある。 現実世界に対してハードウェア機能に無い干渉を引き起こすことは不可能である。 そして、現代のゲーム機には、映像や音声等の明確な出力装置によらない外部干渉を起こす機能はない。 よって、物語の中から物語の外の世界に対して、通常の干渉を超えた干渉を行なうことは不可能である。

物語世界の法則に縛られない描写も、原理的に実現不可能である。 何故なら、物語世界内では、作者が出来ると決めたら何でも出来るからである。 魔法が使えないと思わせておいて、魔法を使ったなら、それは、魔法が使えないという認識が間違いだったにすぎない。 「魔法を使えない世界」という認識が間違いであり、本当の法則では最初から魔法が使えたのである。 最初の魔法のシーン以前に、魔法の能力や技術を持つ者が現れなかっただけに過ぎない。

いずれの方法にせよ、物語内部でのみ超越設定を実現できるに過ぎない。 ようするに、単なるSF設定やファンタジー設定に過ぎないのであり、それでは、双方向メタフィクションを実現したことにはならない。 双方向メタフィクションを積極的に肯定する描写となるためには、単なるSF設定やファンタジー設定ではない、それ以上の描写が必要になる。 たとえば、物語内部だけでなく、現実世界でも魔法や超能力を実現するに至るならば、双方向メタフィクションとしては十分であろう。 しかし、そのようなことは現代科学では実現不可能である。

誤解の例

作者自身の混同

PSP限定版プレミアムブックの以下の記述は、中澤氏がプレイヤーと主人公を混同している証拠であろう。

中澤工氏(以下、中澤):


『Ever17』は、**ッ**ィ***(以下、**)というプレイヤーと同格の視点をゲーム内に登場させて問題を解決することで、ゲームの世界に没入しているユーザーを解放する話でした。


−それでは、“アイツ”とはズバリ、ゲームをしているプレイヤーのことなのでしょうか?
中澤 そう読み取れるようにしたつもりです。ゲーム世界のキャラクターたちが、自分より高位の存在(プレイヤー)のせいで酷い目にあったから、だったら今度はこっちが懲らしめてやれ、と。

「プレイヤーと同格の視点」を持つのは、主人公の特性であって、そのことはプレイヤーと同じであることを意味しない。 そして、表向きの主人公と比較して、よりプレイヤーに近い「プレイヤーと同格の視点」を持つ者が存在するなら、それは、表向きの主人公とは別の真の主人公が存在することを意味する。 つまり、「プレイヤーと同格の視点」とは、隠された真の主人公のことであって、その正体がプレイヤーであることまでは意味しない。 言い替えると、「プレイヤーと同格の視点」で実現できることは、常人的介入設定止まりであり、超人的介入設定には至らない。

しかし、「ゲームの世界に没入しているユーザー」や「ゲームをしているプレイヤー」には、超人的介入設定を目指した意図が読み取れなくもない。 もし、設定として隠された真の主人公を用意するだけで、超人的介入設定を実現できたと思っているなら、それは、かなり痛い。 とはいえ、この場合の作者の意図はどちらでも構わない。 作者の意図は、作品を読み解くための極めて重要なヒントであるが、作者の意図=作品ではない。 考察の対象となるのは、作品そのものであって、作者の意図ではない。 つまり、問うべきは、作者の意図が超人的介入設定か常人的介入設定かではなく、作品でどちらが実現されているかである。

いずれにせよ、中澤氏が「プレイヤー」の語意を混同している疑いが強いことは確かである。 中澤氏が「プレイヤー」と言う場合は、「隠された真の主人公」を意味するのか、本物の「プレイヤー」を意味するのか、前後の文脈から判断する必要がある。

システムの特性

システムの特性が生み出した描写を超人的介入説の根拠とする人もいる。 しかし、それならば、同様のシステムのゲームは例外無く全て超人的介入説(プレイヤーが登場人物として物語世界に介入する)になる。 ノベルゲームのように、時々、出て来る選択肢から1つを選ぶに過ぎない、極めて自由度の低いゲームのシステムが超人的介入説の根拠となるなら、ほぼ、全てのゲームに超人的介入説が当てはまってしまう。 その場合、超人的介入説が適用できないのは、パズルゲームのように、登場人物がないゲームだけとなる。

それは、超常設定のない現実設定のゲームも例外ではない。 例外を認めるためには、【システムの特性が生み出した描写では超人的介入説の根拠不十分】でなければならない。 何故なら、根拠として十分な描写であるなら、それは、確定していると思われていた「設定」をも覆すことができるはずだからである。 システムの特性が超人的介入説の根拠となるならば、実は、現実設定に見せ掛けた超常設定のゲームだった・・・という解釈が成り立つ。 その解釈が成り立たないのならば、超人的介入説は根拠不十分ということになる。 根拠不十分ならば、超常設定のゲームでも超人的介入説(プレイヤーが登場人物として物語世界に介入する)とは言えない。 それらが根拠になるのであれば、メモリーズオフ等の同じシステムを使ったゲームも、全て超人的介入説とならなければおかしい。

設定は凄い?

超人的介入設定が凄いとベタ褒めする人もいる。 しかし、それは、そんなに凄いことか。 常識で考えても、超人的介入などという幼稚な設定では、作品の質を高めるどころか、返って、質を貶めかねない。 荒唐無稽な虚言だと断って馬鹿話をするのは良い。 しかし、真しやかに語るのであれば、看過できない。

作り話における作者は、その物語では神と等しい力を持ち、どんなに大それた設定だろうが、意のままに作ることができる。 だから、超人的介入(プレイヤーが登場人物として物語世界に介入する)設定も簡単に作れる。 しかし、作っただけでは、何の説得力も持たない

超人的介入設定が説得力を持つならば、それは、確かに、凄いと言える。 しかし、それは、超人的介入設定を導入しようとする意図が凄いのではなく、説得力を持つような物語としたことが凄いのである。 そして、超人的介入設定が説得力を持つような物語を描くことは、現実的に不可能である。

各作品の検証

Never7

常人的介入説は許容可能だが、消極的超人的介入説は成立しない。

公式設定より

Never7設定に関するQ&Aには次のように書いてある。

A9.
▼答の前に、まずは以下をお読み下さい。
◎主人公とプレイヤーとのシンクロ
インフィニティという物語の主人公は『プレイヤー自身』です。石原誠という別の名前を持った『プレイヤー自身』なのです。シナリオを書く上でも、この『主人公とプレイヤーとのシンクロ』という点に、細心の注意を払いました。
1.主人公の行動は常に合理的でなければならない
プレイヤーに『俺はこんなことしないぞ!』とか『こんなこと言わないぞ!』とか、『俺だったらこうするのに!』とか『俺だったらこう言うのに!』とか、そういったイライラ感みたいなものは、極力抱かせないように注意しました。
2.主人公とプレイヤーの知識量を等価にしなければならない
『主人公は知っているのに、プレイヤーは知らない』といった状況や、逆に、『プレイヤーは知っているのに、主人公は知らない』といった状況は、出来る限り発生させないよう心がけました。
3.主人公に個性を与えてはならない
主人公を個性的に造形してしまうと、どうしてもプレイヤーとのギャップが出てきてしまいます。
この場合の個性とは、性格や、趣味趣向はもちろんのこと、主人公の過去、人間関係、家族構成、住所、身長、体重、容姿、誕生日など、とにかく、主人公のアイデンティティに関するありとあらゆる事柄を指しています。
例えば、主人公の過去−−初恋の時期という出来事をひとつとっても、何万人かのプレイヤーがいれば、何万通りもの初恋の時期が存在する訳で、『石原誠の初恋=中学の時』という設定を作ってしまうと、そうでないプレイヤーにとっては、石原誠という人物は全くの別人、架空の存在として印象づけられてしまうことになります。
物語を読み進めていく間に、ほんの些細な事でも『あっ、俺は違うのに……』と思う瞬間が多ければ多いほど、その物語の主人公とプレイヤーとの距離感は、どんどんどんどんと広がっていってしまう……。『あっ』と思ったその瞬間に、プレイヤーは現実の世界に引き戻されるのです。
すなわち−−リアリティの喪失。

「主人公は『プレイヤー自身』」には、常人的介入設定か、超人的介入設定か、どちらであるかについては具体的な言及がない。 この記述は、『主人公とプレイヤーとのシンクロ』について書かれているのである。 文章全体の趣旨としては、「主人公とプレイヤーとの距離感」を広げないよう、プレイヤーが主人公と一体感を持てるように配慮したということである。 つまり、超人的介入(物語世界の設定として主人公の正体がプレイヤーだった)ではなく、常人的介入(プレイヤーにとって主人公が自分の分身)を意味しているのである。 以上のことから、常人的介入設定が実現されているとは言えても、超人的介入設定が実現されているとまでは言えない。

乖離量の原則・乖離方向の原則

Never7については、超人的介入説(プレイヤーが登場人物として物語世界に介入する)と解釈する事例はあまり見掛けないので、詳細に検証する必要はないように思われる。 ただ、主人公の行動に不可解な点が多過ぎて*1、 乖離量の原則・乖離方向の原則に明らかに反している。

Ever17

常人的介入説は許容可能だが、消極的超人的介入説は成立しない。

作者の発言より

昨今、発売されたInfinity plusのPremium Bookのインタビュー記事でも、「プレイヤーが登場人物として物語世界に介入する」とは一言も言われていない。

打越 話は『メモリーズオフ』にまでさかのぼりますが、当時、主人公があまりに個性的すぎるとユーザーさんからのお叱りの声が多くて。それを反省点として、行動を常識の範囲内に収めた主人公が『Never7』の石原誠です。『Ever17』の“****”もその延長線上にあります。とにかく主人公=プレイヤーであるという認識を徹底的に高めることで生まれた要素ですね。
中澤 プレイヤーと主人公がいっしょに驚いて、いっしょに悩む。それを心がけました。プレイヤーの知らないことは主人公にも知らせないということに徹していましたね。情報量が同じなら、驚きや悩みをすんなり共有できますから、そこから感情移入してもらおうという狙いでした。

「主人公=プレイヤー」には、常人的介入設定か、超人的介入設定か、どちらであるかについては具体的な言及がない。 しかし、前後の文章を読めば、等号は、【感情移入のために、主人公とプレイヤーの持つ情報量を等しくした】ことだけを意味しているに過ぎないことが分かるだろう。 以上のことから、常人的介入設定が実現されているとは言えても、超人的介入設定が実現されているとまでは言えない。

実際の描写

登場人物にプレイヤーが指差されたから、主人公の正体はプレイヤーだと主張する人がいる。 しかし、登場人物は、主人公が指差しているだけに過ぎない。 プレイヤーは、主人公の視点で物語を見ている。 だから、主人公が指差されるとプレイヤーが指差されたように見える。 たったそれだけに過ぎない。

以上のような、超人的介入説の根拠として挙げられている物は、全て、例外無く、そうしたシステムの特性が生み出した描写類である。

乖離量の原則・乖離方向の原則

茜ヶ崎空や田中優のようなLeMU職員でもなく、松永沙羅のような凄腕のハッカーでもない、一般人の主人公には、自ずと行動限界がある。 LeMU内では、レミシステムを通さずには殆ど情報を得られないため、機密情報を知り得る立場にない主人公では、茜ヶ崎空が知り得ないことを知ることは難しい。 また、分析力においても、茜ヶ崎空にはかなわない。 さらに、レミシステムを介さずして事態の改善を図ることも困難であり、具体的行動力においても、茜ヶ崎空に大きく劣る。

以上のような状況では、主人公に出来ることは殆どない。 もう少し、プレイヤーの疑問を積極的に解消してくれても良いじゃないかとは思えるけれど、行動限界を考慮すれば、やってもやらなくても結果の違いはあまり期待できない。 よって、この場合、主人公が取るべきベストの行動は、ストレスによる自滅を防ぐことであろう。 だから、Ever17における主人公の行動は、比較的、理に叶っており、理性的なプレイヤーから見れば、ある程度、納得できる範囲の行動だろう。

プレイヤーの疑問を解消することに消極的な分、シンクロ率は高いとは言えないが、比較的、理に叶った行動をしている。 ただし、隠し事を成立させるための志村現象(プレイヤーが気付いていることを主人公が不自然なまでに露骨に無視する現象)が多々見られ、これは、乖離量の原則・乖離方向の原則に反している。

Remember11

常人的介入説は許容可能だが、消極的超人的介入説は成立しない。

作者の発言より

昨今、発売されたInfinity plusのPremium Bookのインタビュー記事でも、「プレイヤーが登場人物として物語世界に介入する」とは一言も言われていない。

打越 当初は冒頭に、プレイヤーが選んだ選択肢のせいで、悟が妹の沙也香を殺めてしまうシーンを入れようという案がありました。

「プレイヤーが選んだ選択肢」とあるが、どこにも「登場人物として」とは書かれておらず、常人的介入設定か、超人的介入設定か、どちらであるかについては具体的な言及がない。 ゲーム・システムとゲームの中で起きる出来事の関連性について述べられているのであって、超人的介入説(プレイヤーの選択行為がゲーム世界の中の出来事である)については言及していない。 その他、いずれの発言にも超人的介入説(プレイヤーが登場人物として物語世界に介入する)を意味する表現はない

−だとすると、作中における“アイツ”とはプレイヤーのことなのでしょうか?
中澤 そう解釈できるようにはしてあります。 “アイツ”=プレイヤーとは限りませんけど、彼らには、僕ら、“上の次元の者”1人1人を判別する手段がないですし。

「〜とは限りません」と、作者は、介入説そのものについても、否定的な可能性を意図的に示している。 これらをまとめると、次のようになる。

  • 常人的介入設定については、成り立つ可能性を示唆している
  • 常人的介入設定も、正しいとは限らないことを示唆している
  • 超人的介入設定に関する具体的な言及はない

作者は、常人的介入設定についても曖昧に暈している。 もちろん、作者が超人的介入設定を明言したことは一度もないのである。 中澤氏が、「公の場で、一切のネタバレを気にせずに喋ったのは、ふたりともこれが初めての機会」と言っているので、おそらく、他の資料でも、これを超える言及はされていないと思われる。 その詳細は、Remember11考察 各種資料を参照のこと。

超人的介入説が間違っているのならば、何故、作者自ら否定しないのか・・・と食い下がる人も居るだろう。 しかし、作者が、間違った解釈を否定しないのは当たり前である。 金を貰ってプレイヤーを楽しませるのが彼らの仕事である。 販売の足を引っ張ったり、新たな製作の足かせになる等、ビジネスの邪魔になるのならば、否定する必要があるけれど、プレイヤーが楽しんでいるなら、たとえ、公式設定に反する考察であっても、無理に否定する必要はない。 大事なお客様の機嫌を損ねてまで、想像の自由を制限する必要は全くない。 どんなに間違った解釈であろうとも、ビジネス上の許容範囲内であれば、目くじらを立てて否定する必要はなく、寛容な姿勢で容認すれば良い。 Infinity plusのPremium Bookのインタビュー記事でも、そうした姿勢が見て取れる。

中澤 もちろんその逆の解釈もアリです。〜なんだ、と。どちらが先でも無理はありません。皆さんの好きなように解釈していただければと思います。


中澤 もちろん、物語は意図して作っていますが、細かな解釈は、ユーザーのみなさんにお任せしているところも多々あります。 そういうところは、想像の翼を広げることで、もっと面白くできると思います。 web上などで行なわれている考察は、僕らから見ても楽しいものばかりで、懐の深い作品に出来てよかったです。 一度ゲームを終えたら、僕らの作った99に1を足す気持ちで、気になる謎や要素を、ご自分で一歩先へ進めてみてください。

つまり、作者が超人的介入説を容認しているとしても、それが公式設定と認められたわけではない

具体的描写

主人公の記憶がプレイヤーと一致するから、主人公の記憶をもたらしたのはプレイヤーだと主張する人がいる。 しかし、主人公とプレイヤーの記憶の類似は、開始時点でプレイヤーに真相を明かせない進行上の都合と、 プレイヤーの知らない知識に依存するのはフェアでないとする作者の信念Remember11考察 各種資料も参照のこと。)によるものである。 そのことは、何ら、超人的介入説の根拠とはなり得ない。 また、主人公は、プレイヤーの知らないことを多数知っており、プレイヤーの知っていることを知らなかったりするので、実は、両者の記憶は一致していない。

プレイヤーの選択によって未来が変わるから、プレイヤーは世界を変える力と主張する人がいる。 しかし、それは、システムの特性が生み出したに過ぎない同種ゲームでは良くある現象である。 システムの特性で説明のつく程度の変化でしかなく、世界を変える力を想像するのは大げさすぎる。 また、プレイヤーの選択が世界を変えられなかった描写の方が圧倒的に多い

ある人物2人の入れ替わり等がプレイヤーの認識と一致するから、プレイヤーの認識が2人を入れ替えたと主張する人がいる。 しかし、ゲーム中で説明された通りにプレイヤーが認識するのは当たり前であるから、そのことは何の根拠にもならない。 また、プレイヤーの認識が先にあると仮定すると、多々の致命的矛盾が生じる。 その詳細は、Remember11考察を参照のこと。 また、ゲーム中で人格交換を可能にする装置の存在が明言されており、超人的介入説のような荒唐無稽な珍説は不要である。。

ゲーム中で原理説明がない人格交換やY軸曲げがプレイヤーが絡む場合にだけ起こっているので、これがプレイヤーの介入による現象だと主張する人がいる。 しかし、SF設定の詳細が説明されないのは当たり前のことである。 そして、主人公を中心としたシナリオ展開なので、必然的に、プレイヤーが絡らむケースが多く描かれているだけに過ぎない。 また、プレイヤーが絡まない場合にも起こっていることが明確に描写されており、ある登場人物が装置の処理と明言している

以上のような、超人的介入説の根拠として挙げられている物は、全て、例外無く、そうしたシステムの特性が生み出した描写類である。 また、超人的介入説は各作品の描写との矛盾も見逃せない。 Remember11では致命的なまでに本編の描写と矛盾する。 その詳細は、Remember11考察を参照のこと。

乖離量の原則・乖離方向の原則

ゲーム序盤では、人格交換現象を知っていると思しき人物は主人公だけで、事態を解決可能な期待は主人公が一身に背負っている。 この状況下では、プレイヤーは、主人公に対して、解決に向けた努力を最大限して欲しいと思うだろう。 あらゆる情報を収集し、それらを徹底的に分析し、必要な決断をする。そうした行動が求められる。

しかし、主人公は、そうしたプレイヤーの期待を悉く裏切っている。 とくに、冬川こころが馬鹿過ぎてプレイヤーとの乖離感が激しい。 例えば、冬川こころが死んだと内海カーリーが言うことから、プレイヤーは時間跳躍の可能性にすぐ気付くはずである。 それに対して、冬川こころは優希堂悟から言われるまで、全く、気付かない。 優希堂悟も、どうでも良いことばかりに拘って、肝心なことはおざなりであったりする。 例えば、犬伏景子との会話の中で、主人公達と連動した人格交換現象を匂わせる発言があるにもかかわらず、一度も聞き返そうとしない。 隠し事を成立させるための志村現象の度が過ぎている。

このように、主人公のやること為すこと、悉く、乖離量の原則・乖離方向の原則に反している。

12RIVEN

常人的介入説は許容可能だが、消極的超人的介入説は成立しない。

作者の発言より

本作は、人気作の『Ever17』や『EVE 〜new generation〜』を手がけたシナリオライター・打越鋼太郎氏が原案、脚本、脚本監修を担当している。 ”プレイヤーが登場人物として物語世界に介入する”という、『Ever17』で好評を得たメタフィクション要素を仕掛けとして採り入れつつも、『Ever17』とは違う切り口の作品を目指したという。

「12RIVEN - the Ψcliminal of integral -」は、打越鋼太郎氏が原案/脚本/脚本監修を担当したアドベンチャーゲーム。 “プレイヤーが登場人物として物語世界に介入する”という“メタフィクション”の技法を巧みに導入したストーリー展開が魅力の作品となっている。

世界各国で評判を得たEver17。
2002年発売当初から現在にいたるまで追加受注が続いています。
累計販売本数は10万本を超え、ユーザーのみならず、東浩樹など専門家の注目するタイトルとなりました。
その原動力となったのが、「プレイヤーが登場人物として物語世界に介入する」という仕掛け、メタフィクション要素です。
12RIVENでもこの仕掛けにこだわり、Ever17とは違った切り口で新しいエンターテイメントを提供する予定です。

誰が、これらの文章を誰が描いたのかは知らないが、12RIVENに関してだけは、Production Notesにも似たようなことが書いてあるから、少なくとも、監督の認識とは一致しているのかもしれない (ただし、「実験」、「新しい〜挑戦」等の記述から、Ever17については正反対の見解と読める*2)。 しかし、実際にプレイすると分かるが、12RIVENには「プレイヤーが登場人物として物語世界に介入する」仕掛けは皆無である。 最後までプレイしても、そのような仕掛けは出て来ない。 これは、どうしたことだろうか。

実は、これらの紹介文は、原案者=打越氏の意に添ったものではない。 監督と原案者の考えの食い違いを示す良いサンプルとして、Production Notesと打越氏のブログを比較してみよう。 Production Notesでは、「インテグラル」という言葉に特別な意味があるかのように連呼している。

  • その次元を超える操作に「インテグラル」という言葉をあてている
  • これが、我々が「インテグラル」に込めた想いである。
  • そのシステムを本作では「インテグラル」と名付けた
  • インテグラルには「全体」という意味もある。
  • それが「インテグラル」なのだ。

しかし、打越氏は、「このゲームを示すひとつの象徴みたいなものであって、決してメインテーマというわけではない」とたった一言で否定している。 このことからも、監督が、原案者の思惑を超えて、勝手に暴走していることが読み取れる。

尚、Ever17と12RIVENは会社もスタッフも違う作品である。Never7/Ever17/Remember11の発売元のKIDは2006年12月に破産している。 旧KIDの社員の多くは5pb.に採用されたそうで、12RIVENは、シリーズの権利を買い取った株式会社サイバーフロントが ほぼ1から作り直した(リンク先最終ページ参照)ものである。 12RIVENの監督の若林氏は、Remember11のデバッグ要員として名を連ねているが、Never7とEver17のスタッフロールには名前が掲載されていない。以下、KIDの他の作品での若林氏の役割。

作品発売日役割
Memories off 11999/9/30名前無し
Never72000/3/23名前無し
Memories off 22001/9/27名前無し
Ever172002/8/29名前無し
Memories off 32002/11/28名前無し
Remember112004/3/18デバッグ
Memories off 42004/6/24シナリオスクリプト
Memories off 1&2 後日談2005/1/27シナリオスクリプト、ムービー
Memories off 52005/10/27シナリオ、スクリプト
Separate Hearts2006/2/23シナリオ*3、スクリプト、ムービー
Memories off 4 後日談2006/3/21ストーリーコーディネート
We/Are*2006/7/27名前無し
龍刻2006/9/21名前無し
Memories off 5 後日談2007/7/12*4スペシャルサンクス

以上のことから、監督の若林氏は、Never7/Ever17/Remember11とも関係がないと言える。

具体的描写

雅堂錬丸の新たな記憶がプレイヤーの知識と一致することが、超人的介入説だと主張する人がいる。 しかし、進行上の都合として、錬丸視点と鳴海視点のほぼ同じ時にプレイヤーに真相を明かさざるを得ない。 そのために、結果として、超人的介入説と一致するように見えるだけであろう。 また、プレイヤーが知識を得る時期より、雅堂錬丸が新たな記憶を得る時期の方が早いため、超人的介入説では、プレイヤーが現実世界において未来予知する必要がある。 だから、超人的介入説を指示するためには、現実世界の法則をもねじ曲げる必要が生じる。

以上のような、超人的介入説の根拠として挙げられている物は、全て、例外無く、そうしたシステムの特性が生み出した描写類である。 また、超人的介入説は各作品の描写との矛盾も見逃せない。 12RIVENでは致命的なまでに本編の描写と矛盾する。 その詳細は、12RIVEN考察を参照のこと。

乖離量の原則・乖離方向の原則

Ever17のように主人公の行動限界は明確ではなく、Remember11のように主人公以外の活躍を期待できないという状態ではない。 プレイヤーの置かれた立場は、Ever17とRemember11の中間であろう。

ヒロインに暴言を吐く等、やたらギスギスした行動を取る一方で、過程の描写が不十分で説得力皆無の愛を叫んで暴走する。 また、隠し事を成立させるための志村現象も健在である。 このように、主人公のやること為すこと、悉く、乖離量の原則・乖離方向の原則に反している。

Last modified:2010/09/08 23:53:49
Keyword(s):[基本原則]
References:[Remember11考察(旧)] [Ever17駄考察] [Remember11考察 各種資料] [Remember11考察] [Ever17考察 プレイヤー]
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*1 例えば、やたら、鈴を遠ざけたがるのは現実逃避でしかない。 鈴が不幸の元凶であると決まったわけではなく、本当に未来を変えようとするなら、本当の原因が何処にあるのかを詳しく調べる必要がある。 仮に、鈴が不幸の元凶であったとしても、遠ざけることは何の解決にもならない。 主人公の取っている行動は、解決策を見出すことより現実逃避を優先するという非常に愚かな行動であり、プレイヤーをかなりイライラさせるだろう。

*2 常識で考えて、二番煎じを「新しい〜挑戦」とは言わない。

*3 ただし、メイン・ライターは西ノ宮勇希氏

*4 発売は倒産後だが、倒産前にほぼ完成していた