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多数決の論理

多数決の危うさ

web上で少人数の多数決を取ると、次のような問題が生じます。

  • 統計誤差が生じる
  • 票数の不正操作が容易

所謂ROMや、その時にその場に居合わせなかった人を除外して良いなら、統計誤差は無視して差し支えありません。 しかし、そうした人も含めた平均的な意見を求めるなら、統計誤差は無視できないはずです。

また、webの性質を考えれば、自作自演をすることも可能ですし、友人知人を呼び集めて多数派工作をすることも可能です。 このような人為的操作を行なった物を多数決と認めることができますか?

論理が基本

よく「誰もが納得できる意見」と言うけれど、それは、読んで字のごとく結果的に多数決で支持されることではありません。 多数決では、賛成者が納得したことは明らかにできます。 しかし、棄権者やその場に居合わせなかった人が納得したかどうかまでは分かりません。 そして、反対者に至っては明らかに納得していません。 だから、全ての時間の全ての人に多数決をとり、かつ、誰も棄権せず、かつ、全会一致である場合にだけ、誰もが納得したと言えます。 そんなことは殆ど不可能でしょう。

では、「誰もが納得できる意見」とはどういうことでしょうか。 ここで、「納得する」ではなく「納得できる」であることに注目してください。 この表現から分かることは、「誰もが納得できる意見」とは、結果論ではなく、意見が本来備えている性質のことだということです。 つまり、「誰もが納得できる意見」とは、誰もが納得するだけの合理的理由がある意見であって、かつ、反対理由より賛成理由の方が明らかに上である意見のことです。

議論は、それぞれの意見が、そうした合理的理由を備えた「納得できる意見」であるかどうかを明らかにする手段であって、多数決はその最終判定方法に過ぎません。

ルールに基づいた判定

既に行なわれた行為の善し悪しを判定する場合は、既存のルールと客観的事実と論理によって判定します。 ジャッジには個人の意思を挟み込んではいけません。 なぜなら、個人の意思によるジャッジは公平性を欠くからです。 たとえば、プロ野球の審判が、巨人好きを理由に、巨人に有利な判定を下したらどうでしょうか。 こんな事例を挙げるまでもなく、ジャッジには、事前に明確に定められたルールと客観的事実関係と論理以外の判断基準を持ち込むべきでないことは明らかでしょう。

新ルール設定

新たなルールを定めたり、既存のルールを変える場合を考えます。 その前に、良くある間違いを訂正しておきます。 それは、「ルールを守るべき理由」で、以降の話の前提となることです。 「何故犯罪はいけないか?」と聞くと、「法律にやってはいけないと定めてあるから」と答える人がいます。 しかし、それは全くの本末転倒です。 守らなければならないことを法律に定めているのです。 守るべきことを定めているから守らなければならないのであって、守らなければならないと決めたから守らなければならないと言うのでは、順序が逆です。

どんな法律にも何らかの守るべき合理的理由があります。 法律が個人の利害に反する場合もあるけれど、社会全体の公共の福祉として見れば守るべき合理的理由が必ずあります。 その合理的理由が複雑な場合もあり、一見すると必要のない法律に見えたとしても、良く考えれば合理的理由が見えて来るはずです。 もし、守るべき合理的理由がない法律を作ったとすると、それは憲法で保証された基本的人権の侵害にあたります。 もちろん、何らかの手違いで公共の福祉に反する法律が作られる可能性もあるけれど、そうした悪法もいずれは問題点が明らかになり、そのうちに過ちが正されます。 そうやって基本的人権と公共の福祉を最大限両立することを目指して作られているからこそ、守らなければならないのであって、何の理由もなく盲目的に守らなければならないわけではありません。

以上のことは、法律を限らず、全てのルールに当てはまります。 もちろん、私的な場に限れば、守るべき理由のない恣意的なルールはいくらでも作れます。 しかし、少なくとも、公共の場では、どんなルールにも守るべき合理的理由が存在しています。 だから、自らが管理者となれる私的な場のルールを決めるなら話は別としても、公共の場でのルールを新たに定めようとするならば、そのルールが必要な合理的理由を示せなければなりません。

ただし、ルールを決める場合に限って、合理的理由には、一定の条件に従って個人の嗜好が反映される余地があります。 何故なら、全ての人が許容することを禁止する必要はないからです。 誰もがしたいと思っていて、かつ、誰にも迷惑をかけないことなら、禁止する合理的理由はありません。 むしろ、積極的に推奨すべきでしょう。 このように、個人の意志には、合理的理由を左右する余地があります。

もちろん、この場合、個人の意志は、あくまで、合理的理由を判断する一材料に過ぎないであって、意思が全てではありません。 各自の意思を確認する多数決が必要となる場合も、それは単なる議論の判断材料であって、議論の結果を判定する多数決とは明確に区別する必要があります。

例外

世の中には、純粋に多数決だけで決めて良いこともあります。 例えば、「今日の晩ご飯は何にしようか?」などです。 この場合は、合理的理由として、各自の意思以外の要因を含める余地が殆どない*1だけに過ぎず、決して、合理的理由に基づいた議論が否定されるわけではありません。 言い替えると、他に合理的理由となる要因がないから、意思確認と結果判定を区別する必要がないだけです。

多数決の存在意義

議論が平行線に終わるとしても、合意に至るとしても、必ず、多数決は必要です。 何故なら、合意も多数決の結果だからです。 つまり、議論の結果判定に多数決はつきものであって、多数決なくして議論の結果を判定する方法はありません。 1人の意志がすべてを決める場合もあります。 その場合も、議決権を1人が独占しただけであって、一種の多数決と言えます。

もちろん、議論を尽くしたうえで採用の可否を判定するために最終的に多数決をするのであって、先の述べた例外を除けば、多数決には議論が必須だとも言えます。 多数決の欠点も承知のうえで、より優れた判定方法がないから多数決に頼るのであって、多数決が絶対というわけではありません。 多数決は、ベストなのではなくベターな方法に過ぎないのです。 そして、多数決のもつ欠点を解消するには、議論が必須だとも言えます。 先に述べた通り、ルールに従ったジャッジを行なったり、公共の場のルールを決めるには、正しい判断が必要です。 しかし、多数決は多数の意思を採用するだけであって、正しさという要素を持っていません。 だから、正しい判断を追求するなら議論は欠かせないのです。 議論があって、初めて、多数決に正しさが伴うのです。

余談

良く「民主的に多数決で決めるべきだ」と声高に主張する人が居ますが、その人は民主主義を勘違いしています。 一部の人による恣意的な結果操作を防ぐ手段こそが民主主義であり、その手段として多数決に民意を委ねることが民主主義なのであって、多数決で物事を決めることそのものが民主主義なのではありません。 民主主義が議論を否定しているわけではなく、また、非民主主義にも多数決はあります*2。 多数決が民主なのではなく、それを公平に行なう方法が民主なのです。

Last modified:2010/04/29 23:42:55
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*1 栄養バランス的にどうか、経済的に可能かどうか等を含める余地はある

*2 もちろん、誰もが平等な議決権を持つわけではない