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[[マナーの原則]]、[[情報を発信する意味]]、[[多数決の論理]]、[[荒らし対応マニュアル]]もご覧ください。
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!議論禁止とは?
「議論は禁止」と平然と言ってのける人は沢山います。
しかし、それが意味することを明確に答えられる人は居ません。
「細かいことを一々言うな」「堅苦しいことを言うな」と言うなら、議論禁止などと堅苦しいことを言うべきではありません。
ルールが明確であるからこそ発言前にルール違反でないか検証できるのであって、不明確なルールではルール違反となるかどうかはロシアンルーレットです。
恣意的な後付けルールで非難される、それを恐れて発言しなければならないのでは、これほど堅苦しい状況はありません。
*先に出た意見と逆の意見を言ってはいけない=過去ログを全て調べてからでないと物を言えない
*他人の投稿との関連性の有無にかかわらず、常に独立した意見として述べる
*感情だけの意見を述べなければならない、論理的に物を言ってはいけない
早い者勝ちで一個人の考えを押しつけることが楽しい会話{{fn('議論禁止の一般的口実')}}なのでしょうか?確かに、押しつける側にとっては楽しいでしょう。
しかし、押しつけられる側は楽しいでしょうか?既存の意見と逆の意見を言わないように、過去ログを全て調べてからでなければ何も言えないのが楽しい会話ですか?自由な発言を阻害するのが楽しい会話なのでしょうか?
他人に関わりを持たないことが楽しい会話でしょうか?他人の意見を尋ねることもなければ、他人に何か言うこともない、ただ、自分の言いたいことをダラダラと書き連ねるのが楽しい会話でしょうか?自分の世界に閉じこもることが楽しい会話なのでしょうか?
論理を禁止することは本末転倒ではないですか?論理抜きの純粋な感情では、決して、他人の判断材料にはなりません。
人の役に立つことを言ってはいけない、そんなルールに何の意味があるのでしょうか?webとは[[チラ裏|http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C1%A5%E9%A5%B7%A4%CE%CE%A2]]を書き連ねる場ですか?[[webは情報交換をする場|情報を発信する意味]]ではないのですか?
!論理は誰にも公平
さて、最も公平な裁定は何でしょうか。
個人の主観を押し付けないようにするには、どうすればよいでしょうか。
主観を排除し客観的に公平な物言いをするためには、論理的に物を言うのが一番です。
論理は個人の主観では曲げることができない{{fn('詭弁を駆使すれば論理を曲げたように見せかけることは可能')}}ため、主観の入り込む余地がありません。
また、主観を含まない絶対的な真理を追究することは、誰にとっても最も公平です。
!!一つの結論
結論を一つに絞るべきではないと主張する人が居ます。
本当にそうでしょうか。
確かに、正解が複数あるのに答えを一つに絞って、その一つだけが絶対だと主張することは適切ではありません。
しかし、正解が一つしかないのであれば、答えを絞らせないことは、不正解を正解と同列に扱えと言ってるのと同じです。
不確定要素が全くない場合は、論理的に正しい思考からは結論が一つしか出ません。
しかし、それは、真実が一つしかないからであって、思考方法の問題による誤りではありません。
よって、結論が一つしかないことを理由に論理を放棄することは、二つ以上の答えが出るなら間違いでも良いと言ってるに過ぎません。
真実が一つしかないのであれば、「善と悪」「正と誤」は確実に存在します。
論理を放棄すれば、真実から目を背けることはできても、真実を否定することはできません。
不確定要素がある場合は、「論理的な思考にもとづいて論議」しても答えは一つに定まりません。
真実は一つであっても{{fn('芸術作品の評価など主観論は真実その物が一つではない。
その詳細は補足説明4で')}}、必要な情報が足りない状況では、その真実に辿り着くことが困難になります。
情報が足りないのに、答えを一つに絞ろうとすれば、非論理的な決め付けを必要とします。
それは、論理風屁理屈ですね。
主観で物を言う人ほど、一つの結論を前提に話をする傾向があります。
そして、それに反論すると、その理由も説明せずに「言い訳」「詭弁」「屁理屈」「こじつけ」と言って、他の結論を許していません。
!方法
論理的思考の第一歩は無意識の思考を有意識化に置くことです。
何となくそう思うのは論理的ではありませんが、何故そう思うのかを考えるのは論理的思考の第一歩です。
無意識の思考は、あやふやで、その時々の都合で従うルールがブレてしまいます。
しかし、意識して思考すれば、明確な論理的ルールに基づいて、常に安定した思考を行なうことができます。
そして、論理的思考の達人になれば、自己の都合まで完全に無視して、論理的ルールだけに基づいた思考ができるようになります。
そのためには、5W1Hを常に意識して考えることです。
*why(何故)
*what(何を)
*who(誰が)
*where(何処で)
*when(何時)
*how(如何にして)
論理的に考えるなら、結論が先にあってはなりません。
以下のような項目を元に、最後に結論を求めなければなりません。
*事実関係
*前提事項
*理論
結論から逆順に思考すると、コジツケになります。
結論に固執した思考では、どんな結論に対しても、尤もらしい理屈をこしらえてしまいます。
しかし、尤もらしく見えるだけであって、それが、正しいわけではありません。
!常識の再考
自分の常識を一から説明させられるのは誰だって不愉快です。
その証拠に、常識を細かく説明しようとする奇特な人は希です。
大抵の人に常識の説明を求めると「逆切れ」されます。
それは、この文章を書いている人間も同じです。
ハッキリ言って、常識を一から説明するなんて、絶対にやりたくありません。
それに、完璧な文章など書けないから、長文になるほど揚げ足取りをされる危険性も高まります。
しかし、それでも、敢えて説明するのは、まず、自分の常識を再検証する必要があるからです。
自分が常識だと思ってることが本当に正しいのか、まず、自分自身で検証する必要があります。
本当に正しいなら、他人にきちんと説明できるはずです。
説明できないのならば、その常識は間違っているのかも知れません。
人にアレコレ言うからには、まず、自分の襟を正さなければなりません。
そして、先にも述べた通り、他人と共通でない常識は、きちんと説明する必要があります。
自分の常識を自ら検証しなければ、論理的説明は出来ません。
また、論理を明示しなければ、他人が検証することができず、受け入れるか拒絶するかの踏み絵を迫って、持論を押し付けることになります。
よって、押し付けをすべきではないと思うなら、論理的に物を言うべきなのです。
そうした必要性のために、嫌々ながらも、手間暇をかけて説明をしているのです。
それなのに、言い訳だの詭弁だの言われるのは不愉快です。
具体的に間違いを指摘した上で「よって、貴方の主張は詭弁です」と言われるなら、納得します。
しかし、説明もなく、「常識だ」の一言で片付けられたら、それはとっても不愉快です。
この文章を書いているのも人間です。
ロボットじゃあありません。
努力を尽くして他人を非難するなら分かります。
しかし、努力しない人が努力している人を非難するのは、何か間違っています。
説明すること自体はちっとも楽しくありません。
むしろ、不愉快です。
しかし、その先の結果として、相互理解が期待できるなら、それを想像することは楽しいです。
皆さんも、相互理解を想像してください。
そして、そうなるように説明をきちんとすることをお勧めします。
!冒しやすいミス
思い込みは、しばしば、論理的な思考を妨げます。
そして、思い込みに思考を左右されている人は、大抵、自覚症状がありません。
ここでは、そうした思い込みの具体的事例を挙げて説明しましょう。
!!真実と自称真実
「これは真実だ」と言い張る人が居ます。
確かに、動かぬ真実は存在します。
しかし、人が誰でも真実を理解できるわけではありません。
論理的思考を行なっていないのに、他人の理解できない真実を自分だけが理解できていると思うなら、それは根拠のない自信に過ぎません、直感で真実を理解できるなら、それは、他の人にだって出来るはずです。
それなのに、自分だけが理解できると思うのは、単なる思い上がりです。
そのような真実だと信じていることが本当に真実かどうかは、論理的に検証してみないと分かりません。
「自分は真実を言ってるのだから証明など必要ない」「真実を疑う方が証拠を示すべきだ」と思うかもしれません。
しかし、反論者も正反対の「真実」について同様に思っているのです。
さて、どちらの「真実」が正しいのでしょうか。
ay(このサイトの運営者の名前)は、中学生の時に同級生に「10の0乗はいくらか」と問うたことがあります。
答えは皆0でした。
正解は1です。
しかし、誰も信じてくれません。
何と、数学教師までもが0だと言い出して、ayはすっかり嘘つきになってしまいました。
確かに、10の0乗は1です。
それが真実です。
それなのに、どうして、同級生は真実を信じなかったのでしょうか。
同級生の頭が固かったからでしょうか。
いや、そうではありません{{fn('数学オタの言うことを頭ごなしに否定したのだから、固いことは固い')}}。
最大の原因は、正しい理由を説明できなかったからです。
実は、当時、聞きかじった知識だったので説明しようがなかったのです{{fn('今なら、簡単な式で証明することができますが')}}。
誕生日のパラドックスをご存知ですか。
パラドックスとは二通りの意味があって、一つは皆さんがよく知る矛盾という意味です。
もう一つは、一見すると間違っているような正解を指すのだそうです。
で、「誕生日のパラドックス」のパラドックスは後者です。
「同じ誕生日の人が居る確率を5割以上にするには何人集まれば良いか」について、正解が知りたい人は[[Wikipedia:誕生日のパラドックス]]をご覧ください。
きっと、意外な答えに驚くでしょう。
このように、世の中には信じ難い真実もあるのです。
しかし、だからと言って、信じ難い事が全て真実だというわけでもありません。
信じ難い事が真実かどうかは、検証してみなければ分からない事です。
どんなに正しくても、証明できなければ、人を納得させることはできません。
そればかりか、自分が信じる理由すら疑わしいと言えます。
「真実だから証明不要」なのではなく「真実だから証明が必要」なのです。
尚、証明に高度な科学知識や数学的知識または技能は必要ありません。
立ってる者は親でも使えと言うように、利用できる物は全て利用すれば良いわけです。
分からないことは専門家に任せる・・・ということもwebなら比較的簡単に出来ます。
上の説明でWikipediaを使ったようにね。
!!納得
人は、納得できない話に、しつこく食い下がります。
一方で、納得できる話には、アッサリ引き下がります。
しかし、それこそが、間違った判断を下す原因です。
もっともらしい嘘もあれば、嘘臭い本当もあります。
納得できるかどうかと真実かどうかは別次元の問題です。
!!固執
人は、ある結論の証拠が崩れても、その結論にしつこく固執します。
そして、「間違ってる証拠もないじゃないか」と詰め寄ります。
しかし、その主張は全く無意味です。
最初からもう一度考えてみましょう。
何故、その結論を支持したのでしょうか。
それは、証拠があったからです。
証拠があったからこそ、他の可能性とは一線を画する特別な結論だと思ったわけです。
しかし、今や、その証拠は完全に崩れてしまいました。
証拠がないのだから、証拠がない他の可能性とドングリの背比べになったわけです。
つまり、多数の候補の中でひとつだけが特別と考える理由がなくなったということです。
それなのに、ひとつだけを特別扱いするのは、極めて非論理的な行動です。
!!前提事項
人は、結論に固執してしまうと、無意識のうちに自分の希望する結論へと誘導しようとして、その時々に都合の良いように前提事項をコロコロ変えてしまいます。
そうして、前提事項のブレた結論が出来上がるわけです。
!決め付けと断定
「決め付け」と「断定」は全然違う物です。
「断定」とは、単に、確定判断を下すことです。
一方で、「決めつけ」とは、証拠もなく一方的に断定することを指します。
つまり、具体的証拠に基づいた「断定」は「決め付け」ではありません。
このように、決め付けと論理的断定は全く正反対です。
!!断定
「断定形で物を言うな」との批判は、全く的外れです。
何故なら、論理的断定における結論は、絶対ではないからです。
言い替えると、論理的断定をする人は、結論の変更を許容しているのです。
なぜなら、論理的断定は、その結論を導く論理を明示してあるからです。
隠された論理は検証しようがありません。
しかし、明示されているなら、それを検証することは可能で、間違いがあるなら見つけることができるはずです。
つまり、論理を明示するということは「どうぞ、検証して間違いを見つけてください」と言ってるに等しいのです。
そして、その結論は、その論理が正しい事を前提とした断定であり、その論理を崩せば結論も変わります。
その論理的断定に反論できないのは、断定形であることとは全く無関係です。
反論できないのは、その論理を覆す余地を見つけられないからに過ぎません。
覆す余地を見つけられないことは、すなわち、その論理を疑う理由がないということです。
このような事実関係に基づいた論理的断定は「決めつけ」とは全く異なるものです。
当然、知りうることが可能な事実関係から結論をはじき出しているので、それが覆れば、結論が覆る余地はあります。
!!決め付け
一方で、決め付けは、初めから検証を拒否しています。
なぜなら、反論の対象となる文言がその主張の中にないからです。
その主張を完全に否定できる反論をするには、反論者の方が、その主張以外の部分から根拠を見つけて来なければなりません。
つまり、説明責任を反論者になすり付けることが出来るということです。
そして、その場合、あらかじめ答えを知っているか、あるいは、偶然に見つけることが出来ない限り、反論の根拠を見つけることは困難です。
もし、反論者が説明責任を放棄して、同様に決めつけ的主張を行なっても、決して、五分五分より分が悪くなることはありません。
圧倒的不利な主張をするときは、最低でも五分五分ラインを確保できるという点で、極めて有効なテクニックです。
*参考=[[反証可能性|Wikipedia:反証可能性]]
例えば、幽霊肯定論を唱えましょう。
反論を封じるには「幽霊が居る」とだけ主張することです。
そうすれば、誰も、反論できなくなります。
なぜなら、幽霊が居ないことは絶対に証明不可能だからです。
主張する根拠を示さず、反論は根拠を要求するのでは、かなり卑怯です。
しかし、これなら、負けない議論が出来ます。
オカルトとして幽霊を論じるなら、このやり方で十分でしょう。
しかし、それでは、幽霊の存在を証明したことにはなりません。
証明には、幽霊が存在する証拠とそれが証拠となる理由等の説明が必要です。
そして、その証明が間違っているなら、先に述べた方法で覆すことが可能です。
科学的に幽霊を論じるなら、そうした手続きが必要になります。
!頭が固い?
「相手は分からず屋だ。
頭が固い」と思う場合、大きく分けて、次の二通りの原因が考えられます。
*本当に相手の頭が固い
*実は頭が固いのは自分
もちろん、どちらも当てはまる場合もあります。
!!分からず屋は自分
人間には真実を直接理解することが出来ません。
数々の証拠に基づいて、それが真実だと判断するのであって、超能力でも使わない限り、真実は直接目に見えません。
だから、本当にそれが真実だと認識する合理的理由があるなら、証拠に基づいているはずです。
よって、真実だとの認識が勘違いでない限り、真実の証拠を示すのは簡単なはずです。
言い替えれば、証拠を示せないのに真実だと認識する行為は、単なる思い込みに過ぎません。
もちろん、思い込みが偶々的中する可能性は否定できません。
しかし、人間の直感ほど当てにならない物はなく、的中確率は殆ど0です。
それなのに、直感だけに頼った判断に意味があると主張することは、「私は超常的な力を持っている」と言うのに等しい行為です。
それでも、どうしても、自分の直感が正しいと言い張るなら、それを裏付ける証拠を見つけるべきでしょう。
証拠もないのに正しいと言い張るのは傲慢です。
そして、証拠を探そうともしないなら怠慢です。
直感だけに頼り論理を疎かにする貴方と、直感を過信せずに論理的に検証する相手と、果たして、どちらの頭が固いのでしょうか。
証拠を示せずに自分こそ正しいと言い張る貴方と、証拠を示して物を言う相手と、果たして、どちらの頭が固いのでしょうか。
まとめると、自分の頭が固いから、相手の方が頭が固いように見えているだけなのです。
言い替えると、相手の頭が固いように見えた時は、まず、自分の方こそ頭が固いのではないかと疑う姿勢が大事です。
!!自称論理派
論理的考えに従って物を考えていると自負する者も、もちろん、人間だから、間違いは冒します。
そして、その間違いを全て自力で解消することも、人間だから不可能です。
それが出来るくらいなら、初めから間違いなど冒さないはずです。
自分で気付けないなら、他人に指摘してもらうしかありません。
以下、ここでは、自称論理派が間違っている場合だけを想定して話を続けます。
さて、論理的考えを自負する人間が、他人の決め付けを鵜呑みにするなんて、そんな馬鹿なことがありますか?論理的考えだと自分で思っている以上、正しいかどうかは別として、一応の根拠があって物を言っているのです。
その根拠を覆されたわけでも、もしくは、同等以上の確かさを持った対立する根拠を示されたわけでもなく、ただ、「間違ってる」と言われただけで、「はい、そうですか」と鵜呑みにするはずがありません。
それを鵜呑みにするようでは、自分が用意した根拠って、一体、何だったのでしょう。
「間違っている」と決め付けるだけでは、決して、間違いの指摘とはなれません。
何処がどのような理由でどう間違っているのか、それを具体的に説明することこそが、間違いを指摘することなのです。
それが出来なければ、論理的思考を自負する者が、自らの誤りを認めないのは当たり前のことです。
たとえ、本当に間違っていようとも、間違っている根拠がないのでは、間違いと考える理由がありません。
論理的に考えるなら、理由がないことは認めようがありません。
論理的思考を自負する者の頭が固いのではなく、間違ってると主張する側が的確な根拠を示せないだけに過ぎません。
先にも述べた通り、超能力でも使わない限り、真実は直接目に見えません。
証拠があって初めて正しいかどうか分かるのであって、証拠も示せないのに「俺は正しい」と言い張るのは傲慢です。
言い替えると、本当は完璧な間違いであったとしても、誰も覆せない証拠を示しているならば、それが正しいと言うのは真っ当な主張です。
それを頭が固いとは言いません。
それは、適切な手続きに従った判断をしようとしているだけです。
そして、持論を覆えさないのは、適切な手続きにおいて、そうするだけの合理的理由が発生していないからに過ぎません。
けっして、持論に固執しているからではないのです。
{{toc}}
!議論禁止とは?
「議論は禁止」と平然と言ってのける人は沢山います。
しかし、それが意味することを明確に答えられる人は居ません。
「細かいことを一々言うな」「堅苦しいことを言うな」と言うなら、議論禁止などと堅苦しいことを言うべきではありません。
ルールが明確であるからこそ発言前にルール違反でないか検証できるのであって、不明確なルールではルール違反となるかどうかはロシアンルーレットです。
恣意的な後付けルールで非難される、それを恐れて発言しなければならないのでは、これほど堅苦しい状況はありません。
*先に出た意見と逆の意見を言ってはいけない=過去ログを全て調べてからでないと物を言えない
*他人の投稿との関連性の有無にかかわらず、常に独立した意見として述べる
*感情だけの意見を述べなければならない、論理的に物を言ってはいけない
早い者勝ちで一個人の考えを押しつけることが楽しい会話{{fn('議論禁止の一般的口実')}}なのでしょうか?確かに、押しつける側にとっては楽しいでしょう。
しかし、押しつけられる側は楽しいでしょうか?既存の意見と逆の意見を言わないように、過去ログを全て調べてからでなければ何も言えないのが楽しい会話ですか?自由な発言を阻害するのが楽しい会話なのでしょうか?
他人に関わりを持たないことが楽しい会話でしょうか?他人の意見を尋ねることもなければ、他人に何か言うこともない、ただ、自分の言いたいことをダラダラと書き連ねるのが楽しい会話でしょうか?自分の世界に閉じこもることが楽しい会話なのでしょうか?
論理を禁止することは本末転倒ではないですか?論理抜きの純粋な感情では、決して、他人の判断材料にはなりません。
人の役に立つことを言ってはいけない、そんなルールに何の意味があるのでしょうか?webとは[[チラ裏|http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C1%A5%E9%A5%B7%A4%CE%CE%A2]]を書き連ねる場ですか?[[webは情報交換をする場|情報を発信する意味]]ではないのですか?
!論理は誰にも公平
さて、最も公平な裁定は何でしょうか。
個人の主観を押し付けないようにするには、どうすればよいでしょうか。
主観を排除し客観的に公平な物言いをするためには、論理的に物を言うのが一番です。
論理は個人の主観では曲げることができない{{fn('詭弁を駆使すれば論理を曲げたように見せかけることは可能')}}ため、主観の入り込む余地がありません。
また、主観を含まない絶対的な真理を追究することは、誰にとっても最も公平です。
!!一つの結論
結論を一つに絞るべきではないと主張する人が居ます。
本当にそうでしょうか。
確かに、正解が複数あるのに答えを一つに絞って、その一つだけが絶対だと主張することは適切ではありません。
しかし、正解が一つしかないのであれば、答えを絞らせないことは、不正解を正解と同列に扱えと言ってるのと同じです。
不確定要素が全くない場合は、論理的に正しい思考からは結論が一つしか出ません。
しかし、それは、真実が一つしかないからであって、思考方法の問題による誤りではありません。
よって、結論が一つしかないことを理由に論理を放棄することは、二つ以上の答えが出るなら間違いでも良いと言ってるに過ぎません。
真実が一つしかないのであれば、「善と悪」「正と誤」は確実に存在します。
論理を放棄すれば、真実から目を背けることはできても、真実を否定することはできません。
不確定要素がある場合は、「論理的な思考にもとづいて論議」しても答えは一つに定まりません。
真実は一つであっても{{fn('芸術作品の評価など主観論は真実その物が一つではない。
その詳細は補足説明4で')}}、必要な情報が足りない状況では、その真実に辿り着くことが困難になります。
情報が足りないのに、答えを一つに絞ろうとすれば、非論理的な決め付けを必要とします。
それは、論理風屁理屈ですね。
主観で物を言う人ほど、一つの結論を前提に話をする傾向があります。
そして、それに反論すると、その理由も説明せずに「言い訳」「詭弁」「屁理屈」「こじつけ」と言って、他の結論を許していません。
!方法
論理的思考の第一歩は無意識の思考を有意識化に置くことです。
何となくそう思うのは論理的ではありませんが、何故そう思うのかを考えるのは論理的思考の第一歩です。
無意識の思考は、あやふやで、その時々の都合で従うルールがブレてしまいます。
しかし、意識して思考すれば、明確な論理的ルールに基づいて、常に安定した思考を行なうことができます。
そして、論理的思考の達人になれば、自己の都合まで完全に無視して、論理的ルールだけに基づいた思考ができるようになります。
そのためには、5W1Hを常に意識して考えることです。
*why(何故)
*what(何を)
*who(誰が)
*where(何処で)
*when(何時)
*how(如何にして)
論理的に考えるなら、結論が先にあってはなりません。
以下のような項目を元に、最後に結論を求めなければなりません。
*事実関係
*前提事項
*理論
結論から逆順に思考すると、コジツケになります。
結論に固執した思考では、どんな結論に対しても、尤もらしい理屈をこしらえてしまいます。
しかし、尤もらしく見えるだけであって、それが、正しいわけではありません。
!常識の再考
自分の常識を一から説明させられるのは誰だって不愉快です。
その証拠に、常識を細かく説明しようとする奇特な人は希です。
大抵の人に常識の説明を求めると「逆切れ」されます。
それは、この文章を書いている人間も同じです。
ハッキリ言って、常識を一から説明するなんて、絶対にやりたくありません。
それに、完璧な文章など書けないから、長文になるほど揚げ足取りをされる危険性も高まります。
しかし、それでも、敢えて説明するのは、まず、自分の常識を再検証する必要があるからです。
自分が常識だと思ってることが本当に正しいのか、まず、自分自身で検証する必要があります。
本当に正しいなら、他人にきちんと説明できるはずです。
説明できないのならば、その常識は間違っているのかも知れません。
人にアレコレ言うからには、まず、自分の襟を正さなければなりません。
そして、先にも述べた通り、他人と共通でない常識は、きちんと説明する必要があります。
自分の常識を自ら検証しなければ、論理的説明は出来ません。
また、論理を明示しなければ、他人が検証することができず、受け入れるか拒絶するかの踏み絵を迫って、持論を押し付けることになります。
よって、押し付けをすべきではないと思うなら、論理的に物を言うべきなのです。
そうした必要性のために、嫌々ながらも、手間暇をかけて説明をしているのです。
それなのに、言い訳だの詭弁だの言われるのは不愉快です。
具体的に間違いを指摘した上で「よって、貴方の主張は詭弁です」と言われるなら、納得します。
しかし、説明もなく、「常識だ」の一言で片付けられたら、それはとっても不愉快です。
この文章を書いているのも人間です。
ロボットじゃあありません。
努力を尽くして他人を非難するなら分かります。
しかし、努力しない人が努力している人を非難するのは、何か間違っています。
説明すること自体はちっとも楽しくありません。
むしろ、不愉快です。
しかし、その先の結果として、相互理解が期待できるなら、それを想像することは楽しいです。
皆さんも、相互理解を想像してください。
そして、そうなるように説明をきちんとすることをお勧めします。
!冒しやすいミス
思い込みは、しばしば、論理的な思考を妨げます。
そして、思い込みに思考を左右されている人は、大抵、自覚症状がありません。
ここでは、そうした思い込みの具体的事例を挙げて説明しましょう。
!!真実と自称真実
「これは真実だ」と言い張る人が居ます。
確かに、動かぬ真実は存在します。
しかし、人が誰でも真実を理解できるわけではありません。
論理的思考を行なっていないのに、他人の理解できない真実を自分だけが理解できていると思うなら、それは根拠のない自信に過ぎません、直感で真実を理解できるなら、それは、他の人にだって出来るはずです。
それなのに、自分だけが理解できると思うのは、単なる思い上がりです。
そのような真実だと信じていることが本当に真実かどうかは、論理的に検証してみないと分かりません。
「自分は真実を言ってるのだから証明など必要ない」「真実を疑う方が証拠を示すべきだ」と思うかもしれません。
しかし、反論者も正反対の「真実」について同様に思っているのです。
さて、どちらの「真実」が正しいのでしょうか。
ay(このサイトの運営者の名前)は、中学生の時に同級生に「10の0乗はいくらか」と問うたことがあります。
答えは皆0でした。
正解は1です。
しかし、誰も信じてくれません。
何と、数学教師までもが0だと言い出して、ayはすっかり嘘つきになってしまいました。
確かに、10の0乗は1です。
それが真実です。
それなのに、どうして、同級生は真実を信じなかったのでしょうか。
同級生の頭が固かったからでしょうか。
いや、そうではありません{{fn('数学オタの言うことを頭ごなしに否定したのだから、固いことは固い')}}。
最大の原因は、正しい理由を説明できなかったからです。
実は、当時、聞きかじった知識だったので説明しようがなかったのです{{fn('今なら、簡単な式で証明することができますが')}}。
誕生日のパラドックスをご存知ですか。
パラドックスとは二通りの意味があって、一つは皆さんがよく知る矛盾という意味です。
もう一つは、一見すると間違っているような正解を指すのだそうです。
で、「誕生日のパラドックス」のパラドックスは後者です。
「同じ誕生日の人が居る確率を5割以上にするには何人集まれば良いか」について、正解が知りたい人は[[Wikipedia:誕生日のパラドックス]]をご覧ください。
きっと、意外な答えに驚くでしょう。
このように、世の中には信じ難い真実もあるのです。
しかし、だからと言って、信じ難い事が全て真実だというわけでもありません。
信じ難い事が真実かどうかは、検証してみなければ分からない事です。
どんなに正しくても、証明できなければ、人を納得させることはできません。
そればかりか、自分が信じる理由すら疑わしいと言えます。
「真実だから証明不要」なのではなく「真実だから証明が必要」なのです。
尚、証明に高度な科学知識や数学的知識または技能は必要ありません。
立ってる者は親でも使えと言うように、利用できる物は全て利用すれば良いわけです。
分からないことは専門家に任せる・・・ということもwebなら比較的簡単に出来ます。
上の説明でWikipediaを使ったようにね。
!!納得
人は、納得できない話に、しつこく食い下がります。
一方で、納得できる話には、アッサリ引き下がります。
しかし、それこそが、間違った判断を下す原因です。
もっともらしい嘘もあれば、嘘臭い本当もあります。
納得できるかどうかと真実かどうかは別次元の問題です。
!!固執
人は、ある結論の証拠が崩れても、その結論にしつこく固執します。
そして、「間違ってる証拠もないじゃないか」と詰め寄ります。
しかし、その主張は全く無意味です。
最初からもう一度考えてみましょう。
何故、その結論を支持したのでしょうか。
それは、証拠があったからです。
証拠があったからこそ、他の可能性とは一線を画する特別な結論だと思ったわけです。
しかし、今や、その証拠は完全に崩れてしまいました。
証拠がないのだから、証拠がない他の可能性とドングリの背比べになったわけです。
つまり、多数の候補の中でひとつだけが特別と考える理由がなくなったということです。
それなのに、ひとつだけを特別扱いするのは、極めて非論理的な行動です。
!!前提事項
人は、結論に固執してしまうと、無意識のうちに自分の希望する結論へと誘導しようとして、その時々に都合の良いように前提事項をコロコロ変えてしまいます。
そうして、前提事項のブレた結論が出来上がるわけです。
!決め付けと断定
「決め付け」と「断定」は全然違う物です。
「断定」とは、単に、確定判断を下すことです。
一方で、「決めつけ」とは、証拠もなく一方的に断定することを指します。
つまり、具体的証拠に基づいた「断定」は「決め付け」ではありません。
このように、決め付けと論理的断定は全く正反対です。
!!断定
「断定形で物を言うな」との批判は、全く的外れです。
何故なら、論理的断定における結論は、絶対ではないからです。
言い替えると、論理的断定をする人は、結論の変更を許容しているのです。
なぜなら、論理的断定は、その結論を導く論理を明示してあるからです。
隠された論理は検証しようがありません。
しかし、明示されているなら、それを検証することは可能で、間違いがあるなら見つけることができるはずです。
つまり、論理を明示するということは「どうぞ、検証して間違いを見つけてください」と言ってるに等しいのです。
そして、その結論は、その論理が正しい事を前提とした断定であり、その論理を崩せば結論も変わります。
その論理的断定に反論できないのは、断定形であることとは全く無関係です。
反論できないのは、その論理を覆す余地を見つけられないからに過ぎません。
覆す余地を見つけられないことは、すなわち、その論理を疑う理由がないということです。
このような事実関係に基づいた論理的断定は「決めつけ」とは全く異なるものです。
当然、知りうることが可能な事実関係から結論をはじき出しているので、それが覆れば、結論が覆る余地はあります。
!!決め付け
一方で、決め付けは、初めから検証を拒否しています。
なぜなら、反論の対象となる文言がその主張の中にないからです。
その主張を完全に否定できる反論をするには、反論者の方が、その主張以外の部分から根拠を見つけて来なければなりません。
つまり、説明責任を反論者になすり付けることが出来るということです。
そして、その場合、あらかじめ答えを知っているか、あるいは、偶然に見つけることが出来ない限り、反論の根拠を見つけることは困難です。
もし、反論者が説明責任を放棄して、同様に決めつけ的主張を行なっても、決して、五分五分より分が悪くなることはありません。
圧倒的不利な主張をするときは、最低でも五分五分ラインを確保できるという点で、極めて有効なテクニックです。
*参考=[[反証可能性|Wikipedia:反証可能性]]
例えば、幽霊肯定論を唱えましょう。
反論を封じるには「幽霊が居る」とだけ主張することです。
そうすれば、誰も、反論できなくなります。
なぜなら、幽霊が居ないことは絶対に証明不可能だからです。
主張する根拠を示さず、反論は根拠を要求するのでは、かなり卑怯です。
しかし、これなら、負けない議論が出来ます。
オカルトとして幽霊を論じるなら、このやり方で十分でしょう。
しかし、それでは、幽霊の存在を証明したことにはなりません。
証明には、幽霊が存在する証拠とそれが証拠となる理由等の説明が必要です。
そして、その証明が間違っているなら、先に述べた方法で覆すことが可能です。
科学的に幽霊を論じるなら、そうした手続きが必要になります。
!頭が固い?
「相手は分からず屋だ。
頭が固い」と思う場合、大きく分けて、次の二通りの原因が考えられます。
*本当に相手の頭が固い
*実は頭が固いのは自分
もちろん、どちらも当てはまる場合もあります。
!!分からず屋は自分
人間には真実を直接理解することが出来ません。
数々の証拠に基づいて、それが真実だと判断するのであって、超能力でも使わない限り、真実は直接目に見えません。
だから、本当にそれが真実だと認識する合理的理由があるなら、証拠に基づいているはずです。
よって、真実だとの認識が勘違いでない限り、真実の証拠を示すのは簡単なはずです。
言い替えれば、証拠を示せないのに真実だと認識する行為は、単なる思い込みに過ぎません。
もちろん、思い込みが偶々的中する可能性は否定できません。
しかし、人間の直感ほど当てにならない物はなく、的中確率は殆ど0です。
それなのに、直感だけに頼った判断に意味があると主張することは、「私は超常的な力を持っている」と言うのに等しい行為です。
それでも、どうしても、自分の直感が正しいと言い張るなら、それを裏付ける証拠を見つけるべきでしょう。
証拠もないのに正しいと言い張るのは傲慢です。
そして、証拠を探そうともしないなら怠慢です。
直感だけに頼り論理を疎かにする貴方と、直感を過信せずに論理的に検証する相手と、果たして、どちらの頭が固いのでしょうか。
証拠を示せずに自分こそ正しいと言い張る貴方と、証拠を示して物を言う相手と、果たして、どちらの頭が固いのでしょうか。
まとめると、自分の頭が固いから、相手の方が頭が固いように見えているだけなのです。
言い替えると、相手の頭が固いように見えた時は、まず、自分の方こそ頭が固いのではないかと疑う姿勢が大事です。
!!自称論理派
論理的考えに従って物を考えていると自負する者も、もちろん、人間だから、間違いは冒します。
そして、その間違いを全て自力で解消することも、人間だから不可能です。
それが出来るくらいなら、初めから間違いなど冒さないはずです。
自分で気付けないなら、他人に指摘してもらうしかありません。
以下、ここでは、自称論理派が間違っている場合だけを想定して話を続けます。
さて、論理的考えを自負する人間が、他人の決め付けを鵜呑みにするなんて、そんな馬鹿なことがありますか?論理的考えだと自分で思っている以上、正しいかどうかは別として、一応の根拠があって物を言っているのです。
その根拠を覆されたわけでも、もしくは、同等以上の確かさを持った対立する根拠を示されたわけでもなく、ただ、「間違ってる」と言われただけで、「はい、そうですか」と鵜呑みにするはずがありません。
それを鵜呑みにするようでは、自分が用意した根拠って、一体、何だったのでしょう。
「間違っている」と決め付けるだけでは、決して、間違いの指摘とはなれません。
何処がどのような理由でどう間違っているのか、それを具体的に説明することこそが、間違いを指摘することなのです。
それが出来なければ、論理的思考を自負する者が、自らの誤りを認めないのは当たり前のことです。
たとえ、本当に間違っていようとも、間違っている根拠がないのでは、間違いと考える理由がありません。
論理的に考えるなら、理由がないことは認めようがありません。
論理的思考を自負する者の頭が固いのではなく、間違ってると主張する側が的確な根拠を示せないだけに過ぎません。
先にも述べた通り、超能力でも使わない限り、真実は直接目に見えません。
証拠があって初めて正しいかどうか分かるのであって、証拠も示せないのに「俺は正しい」と言い張るのは傲慢です。
言い替えると、本当は完璧な間違いであったとしても、誰も覆せない証拠を示しているならば、それが正しいと言うのは真っ当な主張です。
それを頭が固いとは言いません。
それは、適切な手続きに従った判断をしようとしているだけです。
そして、持論を覆えさないのは、適切な手続きにおいて、そうするだけの合理的理由が発生していないからに過ぎません。
けっして、持論に固執しているからではないのです。