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議論のルール

基本的注意事項

議論・反論は誰でも何時でも自由にしてよい。 ただし、利用規約にも書いてあるとおり、許可された場所以外での議論・反論は認めていない。 議論・反論は全て対象ページのノート・ページ(対象ページが無い場合は運営その他雑談)で行なってもらいたい。

また、利用規約にて、荒らし対応、発展的改良、軽微修正、運営者判断等を除いて、合意なき削除も認めていないので、気に入らない記述だからと言って、議論での合意を経ずに既存の記述を消してはならない。

争点を整理せよ

議論が無駄に発散することを防ぐため、何が争点になっているのかを整理し、完結明瞭な説明に努めるべきである。 結論を左右する重要な争点に絞り、根拠をまとめて、論理的説明に努めるべきである。 結論を左右しない些細な問題について、延々と主張を展開すべきではない。

「論」を示せ

議論は、お互いに交互に何か言うことではない。 議論は、「論」を闘わせる行為であって、「論」がない文章をいくら並べても、議論にはならない。 「論」には次のような記述が必要である。

  • 事実関係
  • 適用する法則・ルール
  • 論理展開

このうち、双方に合意が見られる事項については省略して差し支えない。 合意事項は、むしろ、積極的に省略すべきだろう。 争いが無いことを延々と主張しつづけても、無駄に議論が発散するだけである。

よく、次のような主張を延々と続ける人がいる。

  • 争点とは関係がない話
  • 双方の主張に差異がない部分の話
  • 既に間違いを指摘された事実関係なのに、重大な間違いを修正せずに前提事項としている
  • 適用する法則・ルールがそのケースに合ってない*1、又は、適用する法則・ルールに一貫性がない
  • 感情論のみで書かれており、論理展開がない(議論対象が人間の感情に関することであっても、事実関係、法則*2、論理展開により論ずることはできる。感情に関する議論であることは、感情論を主張する口実とはならない。)

しかし、これらは、全く「論」として成立していない。 「論」として成り立たない文章を、どれだけ多数並べても、議論にはならない。 何か言い返したように見せ掛けて、議論をしているかのように偽装するなら、それは正常な議論を妨害する行為に他ならない。

自分を棚に上げるな

よくあるケースが、「お前は人の感情が分からないのか」と言いながら、言った本人が相手の感情をないがしろにしているケース。 人に何か文句を言う前に、まず、自分自身を省みることが大事だろう。

些細な間違い

相手の主張に些細な間違いがあった場合に、それを指摘しても構わない。 ただし、結論を左右しない指摘は、反論にはならないし、反論としてはならない。 そのような指摘は、反論ではない些細な間違いの修正であることを明記したうえで行なうべきである。 でなければ、揚げ足取りとなる。

詭弁を弄するな

故意に詭弁を弄するのは論外である。 また、過失で詭弁となることも、事前に十分な注意を払っていれば、避けることは可能である。 故意であるか、過失であるかに関わらず、詭弁を避ける努力は必要である。

詭弁の具体例として詭弁の特徴のガイドラインが有名だが、残念ながら、これは体系的に整理されておらず、同じようなことを複数列記していたり、的を射ていない物も多数ある。 それらを踏まえて、典型例を体系的にまとめてみる。

  • 明らかな虚偽事実
  • 自己都合基準
    • 根拠なき断定
    • ダブルスタンダード(その時の都合に合わせて前提事項を変える)
    • 持論に都合の悪いことの無視
  • 論点のすり替え
    • 無意味な仮定(悪魔の証明とも言う。)
      • 現実にあり得ない仮定(あり得ると主張するならば、無視できない程度にはあり得ることを示す根拠を示さなければならない)
      • 一般論の議論において想定の必要のない超例外事例*3
    • 架空意見への反論(極論論法もその一手法)
    • 主観論へのすり替え(例:「そんなの人それぞれだろ」)
  • 偽装根拠
    • 印象操作(人格攻撃や揚げ足取り等、相手の人格や知識に欠陥があると印象づける手法)
    • 多数論証(自作自演や動員によって多数派に見せ掛ける行為。多数意見であることは意見の正しさを保証しないが、ネットでは多数意見であることすら保証されない)
    • 循環論証

もちろん、これら典型例に該当しない場合であっても、詭弁は正当化されない。

断定的に物を言え

よく、断定形の主張に対して決め付けだと文句を言う人がいるが、それは全くの見当違いである。 主観的断定が決め付けなのであって、論理的断定は決め付けではない。 論理的断定は、その結論を導く論理を明示してある。 隠された論理は検証しようがないが、明示されているなら、それを検証することは可能である。 つまり、論理を明示することは「どうぞ、検証して間違いを見つけてください」と言ってるに等しい。 それに対して、主観的断定は、その結論を導く論理を明示しない。 検証可能性を確保しないのは、他者の反論を拒否しているからであり、それは、正しく、決め付け行為に他ならない。

断定を避けた曖昧な主張は、何も言っていないのと等しく、無責任なだけであって、謙虚でも何でもない。 その詳細は、マナーの原則の「意思疎通の限界」-「高圧的態度とは?」あたりに詳しく書いてある。 自分で言っていることに自信がなく、発言内容に責任を持てないから、言い訳のために断定を避けているだけに過ぎない。 言うまでもなく、公共の場での意見表明は、他人に何らかの影響力を与えようとする行為である。 与えようとする影響力が、任意の選択の範囲に留まるか、あるいは、強要であるかの違いはある。 だが、どちらにしろ、他人に何らかの影響力を与えようとしていることに変わりはない。 他人に影響力を与えようとしているのだから、当然、その発言内容は事前に慎重に吟味されるべきである。

断定を避けた発言をする人に限って、自分の主張の根拠が崩れても、間違ってる根拠が示されても、絶対に自分の過ちを認めない。 自分の正しさを証明できないくせに、自分は絶対に正しいと主張したいからこそ、断定を避けるのである。 自分が謙虚であるとアピールしたいのか、非難されたくないから良い子ぶってるのか、人に言われる前に先手を打って自分を卑下することで自己防衛しているのか。 いずれにせよ、他人に対する思い遣りの欠片もなく、自分だけが可愛いことに変わりがない。

本当に自らの過ちと真摯に向き合う覚悟のある人は、言い訳を考える前に、まず、自分の主張をしっかりと検証する。 根拠が正しいと信じるうちは自信を持って断言しながらも、根拠が崩れれば素直に間違いを認める。 そういう人であってこそ信用に値する。 自信満々に言っていても、その自信が徹底的な自己研鑽に裏打ちされていて、かつ、他人の指摘には真摯に耳を傾け、過ちがあれば正そうとする人こそ、本当の意味での謙虚な人だろう。

本当に謙虚な人は、不特定多数を相手にすることの意味を理解し、情報がなるべく正しくなるように不断の努力をする。 間違ってるかも知れないのを承知しながら、間違いを正す努力もせずに、軽々しく発信するようでは、謙虚さが全く足りない。 サイト訪問者にとって重要なことは、書かれた内容とその信憑性であって、記述者の言い訳ではない。 そして、正しい物言いをする努力の達成度が、情報の信憑性に繋がるのである。 謙虚な人ほど、そうした信憑性の向上に気を遣う。 一方で、無責任な人は、その努力が足りないからこそ、間違ってるかも知れないなどとの、意味不明の免罪符を軽々しく掲げるのだろう。 そして、その免罪符こそが努力不足、すなわち、信憑性のない証拠であると、「免罪者」は理解していないのである。 一定程度の信憑性(どの程度の信憑性が求められるかは、個々の情報における需要と供給の関係で決まるので、一概には言えない)が確保できないのでは、何も言ってないに等しい。 それならば、初めから、何も言わなければ良い。

尚、参考意見だから断定しない、という言い訳は通用しない。 何故なら、その参考意見が検討に値する意見であるかどうか、根拠を示して論理的断定を行なうことが可能だからである。 根拠を示せないならば、その参考意見は、参考意見に偽装した詭弁手法「無意味な仮定」でしかない。

反論の条件

誤解しやすいことなので明言しておくが、反論とは、相手の主張の不成立を証明することであって、真逆の主張が正しいことを証明することではない。 反論は、相手の主張の蓋然性が不十分であることを示せば十分であり、対案となる主張を示す必要は全くない。 真相に辿り着くには対案が必要となるが、だからと言って、元の主張を崩すことが無意味であることにはならない。 いや、間違った主張を崩すことは、真相に辿り着くための必要な過程である。 相手の主張におかしなところがあるなら、遠慮なく堂々と指摘すれば良い。 反論者には、元の主張に取って代わる対案を用意する責任も義務もない。 反論自体が貴重で有用な意見なのであって、貴重で有用な情報の提供者に対して更なる情報提供を要求する方が厚かましい。

尚、このサイトで必須とする蓋然性の程度は、五分五分以上、あるいは、他の候補と一線を画した最有力候補であることである。 ただし、人を笑わすためのジョーク、一定条件を満たす並立事例、蓋然性が低いことを明示する場合等は、この限りではない。

具体的な反論のやり方

既存の意見の蓋然性が五分五分以上、及び、最有力候補であるとする根拠を崩せば、反論は成立する。 その方法として、以下の2通りのやり方を示す。

  • 別根拠提示(ただし、反論対象意見の根拠と同等かそれ以上の蓋然性を必要とする)
  • 根拠批判(ただし、反論対象意見の根拠の蓋然性を十分に崩すことを必要とする)

たとえば、「〜かもしれない」では、不十分である。 蓋然性の程度を論じることのない仮説では、荒唐無稽な珍説に過ぎず、妄想で批判しているに等しい。 間違っている可能性を挙げれば反論となるのならば、どんな意見に対しても、「間違ってるかもしれない」と言えば反論として成立することになる。 そんな馬鹿なわけがない。 反論とするなら、当然、「〜かもしれない」蓋然性が一定程度必要である。

再反論の方法も複数ある。

  • 根拠の補強
  • 反論根拠批判

いずれの方法においても、反論と同じく、反論を跳ね返すのに十分な蓋然性がなければ、再反論として成立しない。

反論にならない例

まずは、喩え話から。

ある自称騎士が目の前の城を見てこう言った。
「これは何て脆弱な城だ。ハリボテではないか。こんな城なら破壊するのは容易い。」
自称騎士の声は大きく、城内に居る城主の元にまで届いた。
城主は、塀から顔をのぞかせて自称騎士を挑発した。
「これは面白い。容易く破壊できると仰るなら、どうぞご自由に破壊して戴きたい。」
しかし、自称騎士は一歩も動かず、次のように答えた。
「そんな安易な挑発には乗らんぞ。」
それに対して、城主は次のように答えた。
「これは異なことを。容易くできると言っておきながら、許可が出たら出来ないと仰る。」
自称騎士は次のように答えた。
「どんなに挑発されても、何もやらんぞ。」
自称騎士が動く気がないのを見て、城主は微笑みながら次のように答えた。
「つまり、このハリボテは城としてちゃんと機能しているということですな。」
「何しろ、貴方のような外敵に破壊されることなく、中の者の安全を守っているのだから。」
「そして、貴方は、ハリボテすら破壊できない脆弱な騎士様ということですな。」*4

議論においても、これと似たようなことがある。 相手の主張の根拠が脆弱だと断言するばかりで、決して、何処がどう脆弱なのか具体的には指摘しない。 ハリボテだと言うなら、その証拠に、破壊してみれば良い。 脆弱な主張だと言うなら、その証拠に、論破してみれば良い。 抽象的な一般論を繰り返したところで、城の外から「ハリボテだ。破壊は容易だ。」と叫んでいるだけに過ぎない。 それを負け犬の遠吠えと言う。 本当に脆弱なら、何処がどう脆弱なのか具体的には指摘して、論破するのは容易なはずである。 そんなに容易なら、どうして、脆弱性を証明することを避けるのか。

こうなったら、もう、元の主張の根拠が脆弱であるかどうかなど関係がない。 というのも、その脆弱な主張は、相手の論破を防いでいるのだから。 どんなに脆弱であろうとも、論破されないなら、それは根拠としての機能を十分に果たしている。 そして、その脆弱な根拠を論破することもできないなら、その者の議論能力の方が遥かに脆弱であることになる。

「〜かもしれない」「個人的意見に過ぎない」「人それぞれ」などと言うのは簡単である。 しかし、それは、城の外で「ハリボテだ。破壊は容易だ。」と負け犬の遠吠えをしているに過ぎない。 自分の主張について、ハリボテを超える蓋然性を証明できない者に、ハリボテを批判する資格はない。

Last modified:2010/08/24 00:17:41
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*1 例:特定の例外事項にのみ該当するルールを、例外に当たらない事例に適用する。

*2 「いきなり殴られて怒らない奴は居ない」「肉親が死んで悲しまない奴は居ない」等

*3 想定の必要のある例外を論じることは詭弁ではない。

*4 完全オリジナルではあるが、似たような話を既に誰かが発表していてもおかしくはない。それくらい在り来たりな喩え話。