情報を発信する意味
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誰も貴方を気にしていない
反論に対して感情的に反発する人が居ます。 「俺がどう思おうと自由じゃないか」と。 「お前の意見を押し付けるな」と。 しかし、押し付けるなというなら、「それでは、最初の貴方の意見は押しつけではないのか?」と自分自身に跳ね返って来るはずです。
そもそも、本当に、他人が自分の意見に干渉しているのでしょうか。 本気でそう思うなら、え〜っと、はっきり言って・・・自意識過剰です*1。 程度の違いこそあれ、誰にとっても、自分以外のことは他人事です。 夫婦や親兄弟にさえ無関心な人も、珍しくありません。 親戚、友人、知人のことを自分のことのように思う人が、どれくらい居るでしょうか。 まして、年齢も性別も所在地も顔も名前も知らない赤の他人に、いったい、誰が興味を持つでしょうか。
赤の他人の意見を変えてやらないと気が済まない人は、確かに、存在します。 しかし、そんなことは現実的に不可能です。 自分と違う考えの人は、この世に多数居ます。 そのうち、違うことが分かった人は、氷山の一角に過ぎません。 その氷山の一角にムキになっても、氷山全体がそのままでは、全くと言って良いほど無意味です。
閲覧者は独り善がりを求めていない
人気サイトには、何故、人が集まるのでしょうか。 その人たちは、他人の独り善がりを見たいのでしょうか。 そんな訳ありませんよね。 集まる人にとって有益な情報があるから、そのサイトに集まるのです。 webは、お互いに有益な情報を交換する場なのであって、他人の役に立たない独り善がりを披露する場ではないのです。 披露しても誰も見てくれないのでは無意味です。
ところが、webが自分の独り善がりを披露する場所だと勘違いしている人が少なくありません。 そう勘違いしている人は、他人が何か意見を言うと、独り善がりに干渉されたと憤慨します。 しかし、よく考えてみてください。 その人が有名人だったり魅力的だったりすれば、独り善がりを見たいと言う人も居るでしょう。 しかし、何処の馬の骨かも分からないような人の独り善がりを誰が見たがりますか。 誰も貴方の独りよがりの自己満足になど関心を持っていません。 だから、貴方の独り善がりに干渉しようなんて、思うはずがないのです。 「大衆は俺様の独り善がりを見たいはずだ」と思うのは、単なる勘違いに過ぎません。
訪問者は、貴方の独り善がりを見に来ているのではないのです。 役に立つ情報を探しに来ているのです。 それに対して、役に立つであろう情報を提供してあげるから、人が集まるのです。 訪問者にとって重要なことは、情報の善し悪しであって、貴方の独り善がりの有無ではないのです。
webは常に不特定多数を相手にしている
webは特定少数ではなく、不特定多数に情報を発信する場です。 例えば、webに何か投稿するとき、貴方は、誰に向かって物を言ってるのでしょうか。 特定の人物に物を言うなら、メールやインスタントメッセンジャーで済ますはずです。 webに投稿するのは、不特定多数の人に情報を発信したいからです。 それは、反論についても同様です。 反論も、元の意見を書いた個人を対象にした物ではなく、その投稿を見る全ての人に向けられる物です。 自分の投稿は不特定多数宛なのに、それにぶら下がるレスだけは全て自分個人宛だと思うのは、自意識過剰にもほどがあります。 他の人は、貴方が思うほど、貴方のことを特別視したりしていません。 貴方にとって他の参加者が不特定多数の中の一人のように、他の人にとっても貴方は不特定多数の中の一人に過ぎないのです。
webでの投稿は他人に何か影響を与えようとする行為です。 そうでないなら、webに投稿する意味はありません。 だから、「チラシの裏にでも書いてろ」と言われるわけです。 そして、webでの反論は、不特定多数に発信される情報の内容を訂正しようとする行為であって、元の投稿者個人の考えを訂正しようとする行為ではありません。
主観の源も情報
無に対しては主観を持ちようがありません*2。 どのような主観も、その対象となる存在があります。 主観に「善と悪」や「正と誤」が無くても、その対象に対する認識に「正と誤」がないわけではありません。 論じているのは個人の主観についてでなく、その対象についてなのです。
例えば、次のような状況を考えてください。
- Aさんの息子Bさんが死んだ
- AさんはCさんが犯人だと思っている
- 実は、真犯人はDさん
AさんがCさんを恨むことは個人的主観ですが、それは、Cさんが犯人だと事実誤認していることによって生じた主観です。 そして、「真犯人はDさん」だと教えることは、個人的主観への干渉ではありません。 それは、単に事実*3を教えただけです。 そして、正しい事実認識をもって、どのような主観を持つかは個人の自由です。
この事例では、AさんがDさんを恨む以外の主観は考えにくいので、もう少し、主観の違いが分かりやすくなるように、新真実を追加します。
- 実は、DさんはBさんから暴行を受け脅されていた
これならば、主観は、人によって違いが生じ得ます。 例えば、次のように。
- それでもDさんは許せない
- 息子が死んだのは自業自得だ
- Dさんに迷惑かけて申し訳ない
以上、まとめると、個人的主観は、その人の考え方だけに左右されるのではなく、次のような要因で決定されるということです。
- 事実認識
- 本人の考え方
- 環境*4
「他人に干渉するのは不当でないか?」と思う人は、決して、他人に対して物を言ってはいけません。 何故なら、人前で物を言うことは、全て、他人に対して干渉する行為だからです。 誰にも干渉しない言葉なら、ただの独り言ですね。 独り言なら誰も聞いていない所で言えば良いはずです。 何故、人前で言うのでしょうか。 それは、他人に干渉しようとするからです。 それが駄目だと言ってしまったら、誰にも何も言えなくなりますね。 だから、干渉行為その物は何も悪くないのです。 問題は、何を干渉するかです。
不当な干渉にならない範囲の干渉とは何かと言えば、まず、事実認識に干渉する行為が挙げられます。 なぜなら、事実認識については明確な正解が存在するからです。 本人が拒絶しても、真実は覆せません。 正解がある以上、間違いを指摘することができます。 また、考え方についても、社会のルール等に関することは便宜上の正解が存在することも多く、そうした内容については干渉を正当化することが可能です。 そして、それ以上のことについては、明確な正解が存在しません。 明確な正解が存在しないのであれば、何を信じるのも個人の自由であり、それに干渉する行為は、個人の自由の侵害と言えます。
先にも述べた通り、個人の自由を侵害しても無意味です。 分かっている人は、侵害を目的とした投稿などしません。 投稿目的は別にあるのです。
判断するのは閲覧者
何をどう判断するかは、当人の問題です。 他人がとやかく言うことではありません。 自分の判断を他人にとやかく言われないということは、他人の判断についても自分がとやかく言えないということです。 他人の判断にとやかく言えないのであれば、純粋な自分の判断だけを記述した物は、他人に何の影響も与えられないはずです。 つまり、他人には何の役にも立ちません。 他人の役に立たない自己満足の記述をwebに載せる行為は、露出狂が自分の裸体を他人に見せつけて喜んでいるのと大差ありません。 webは、他人に自分の意見を押し付けるための物ではありません。 確かに、押し付けたい動機で行動している人は居るでしょうが、誰も従わないのでは無意味です。
それでは、何のために、webで情報を発信するのでしょうか。 それは、閲覧者の判断材料にしてもらうためです。 情報が何もないのに判断しろと言われても困りますね。 自信を持って判断するには、何かしらの情報が必要です。 誰だって、間違った判断よりは、正しい判断をしたいはずです。 そして、ヤマ勘に頼るよりは、正確な情報に基づいた方が、より正しい判断が出来るはずです。 他人に判断材料を提供することは、自分が判断材料を欲しいと思うからこそ行なうギブ&テイクなのです。
主張も反論も、閲覧者にとっての、一種の判断材料なのです。 だから、web上で主張や反論をするのです。 決して、特定個人の考えを変えてやろうと思っているわけではありません。 いや、確かに、そう思って主張や反論をする人も居るでしょうが、それは先に述べた通り、無意味な行為です*5。 また、「俺はそう思う」や「俺はそう思わない」と言っても意味がありません。 何故なら、それは、閲覧者にとって何の判断材料にもなっていないからです。 判断材料が提供されているなら、あえて主観的感想を追加せずとも、判断に支障はありません。 主張の補足や解説、矛盾的の指摘などは、新たな判断材料として意味を持ちます。 しかし、主観的感想などは、新たな判断材料とならないため、全くの蛇足です。 それでも、自己満足のためだけに主観的感想を投稿をするなら、人の意見を変えてやろうと思っている連中と同じ穴の狢となります。
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