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検討中のルール

以下、移転前の投稿内容で未整理なもの

まとまらない文章 - ay (2006年04月26日 23時23分51秒)

うまくまとまらないorz

作成中文章

誰もが支配戦略を選ぶわけではありません。 世の中には、ナッシュ均衡を脱してパレート効率化を目指そうと頑張る奇特な人も居ます。

常に支配戦略を選ぶ人にとっては、パレート効率化は理解できないかも知れない。 しかし、その考え自体は難しいことではなく、

これは、誠意の問題です。 確かに、正確に言えば、誠意と自己都合のどちらに重きを置くかという価値観の問題ではあるのだけど。

公共の場で物を言うには・・・ - ay (2006年06月23日 18時12分15秒)

他人に何ら不利益を及ぼさない発言なら、考えなしに物を言っても構わないでしょう。 しかし、他人に不利益を及ぼす発言をするなら、きちんと考えてから物を言うのは当然のマナーです。 これは、不利益を受ける立場に立って考えれば、ごく当たり前のことです。

「一々堅苦しいことを言うな」*1という主張は通りません。 誰だって楽をしたいと思います。 しかし、他人を犠牲にしてまで楽を追求して良いはずがありません。 自分が楽をすることは他人に苦労を押しつけることになります。 他人を楽にさせるには自分が苦労を引き受けることです。 「俺様だけが楽をしたい」という主張は身勝手です。 楽をしたいなら、皆が楽できる方法を主張してこそ正論です。

よって、自分の言動が他人に不利益を及ぼさないか、常に、考えてから物を言う必要があります。 分からないなら迂闊に口を挟まないことです。 分からないのに口を挟めば、事態を余計に混乱させるだけです。 そして、それは新たなトラブルの原因となりかねません。

以下、細かい補足事項。

あって当り前ではなく、誰かが常に支えている

次のような誤解をする人が居ます。

  • 空気や水が初めからあると思うように、秩序も初めからあると思う
  • 空気や水がタダだと思うように、秩序もタダだと思う
  • 空気や水が無尽蔵と思うように、秩序も無尽蔵と思う

それが幻想だと気づかないのは、人生経験が浅いからでしょう。 優雅に泳ぐ白鳥を羨ましいと思うか、白鳥の水面下に思いを馳せるかどうか、経験によって考えは大きく変わります。

親に育ててもらっている人は、次のように思うか知れません。

  • 飯を食わせてもらって当り前
  • 部屋を掃除してもらって当り前
  • 服を洗ってもらって当り前

しかし、当り前だと思ってることも、誰かがそれを支えているから成り立っています。 誰も支えてくれなくなって初めて気がつく人も居るでしょう。

幻想に留まるのは個人の自由です。 しかし、幻想を選択したなら、現実で頑張る人に不服を言う資格はありません。 他人任せで支える側に回らないのは自由でも、支えてくれてる人に文句を言うのは筋違いです。

前提事項は必要な議論

あるスレッドの話題については、それを論じるための前提事項も、その話題には必要であるはずです。 そして、その前提事項が明確となっていないなら、その話題を論じるためには、その前提事項も論じる必要があります。 つまり、明確でない前提事項は、そのスレッドに即した話題であるはずです。 それなのに、その前提事項に関する話が出ると、「関係ないから、他所でやれ」と排斥したがる人が居ます。 前提事項を明確にせず、いったい、どうやって本題を話し合えと言うのでしょうか。

喩えて言うと

  1. 「ステーキ食いたい」
  2. 「ウチにそんなお金はないよ」
  3. 「飯の話してるんだ、お金は関係ない」
  4. 「お金がなけりゃステーキなんか食えないんだよ」
  5. 「うるせーよ、お金の話なら他所でやれ!」*2

家計が苦しい家庭でステーキを食べるには、お金の算段が必要です。 要望を叶えるために必要なこと*3をしている人間に対して、要望を言った張本人が文句を言うのは筋違いも甚だしい。 誰のせいでお金のやりくりをしなければならなくなったのか、それを考えたら文句など言えないはずです。 話の中身が分からないなら、話に加わらなければよいだけです。

しかし、世の中には、前提事項を整理する*4人間に対して、「ここはそんな話をする場ではない。そんなにやりたければ他所でやれ。」と平然と言う人が少なくありません。 最大の問題は、その文句は筋違いだと指摘する人間が誰も居ないことです。 そのスレッドで必要かどうかも、どのレスのせいで必要になったかも考慮せず、一方的に排斥しようとし、それがおかしいと誰も言わない。 元レスによって必要性が生じたなら、そこでやる必要のある話題です。 そして、元レスがなければ必要ないのであれば、他所でやる必要のない話題です。 それなのに、どんな了見で「他所でやれ」と言ってるのでしょうか。

個人的好き嫌いは排斥理由にならない

見たくなければスルーすれば良いのであって、見たくないことは排斥の正当な理由とはなりません。 必要性を生じさせた張本人が、自分にとってどうでも良いという理由で排斥するのは身勝手です。 そもそも、自分にとってどうでも良いと思うことも、自分に優しく他人に厳しいから*5です。 自分の言動が身勝手の固まりだと自覚していないから、平然と文句が言えるのでしょう。

ローカルルールも必要な前提事項

たとえば、スレッドのローカルルールも、それを設定するなら、その内容を明確にすることは、必要な前提事項のはずです。 ローカルルールによって容認される発言の内容が決まるのだから、言い替えると、ローカルルールが明確でなければ容認される発言も決まりません。 どんな投稿が許されるのかが決まらなければ、投稿することさえ出来なはずです。 それでも、スレッド内でルールを明確にするなというなら、それは、スレッドに投稿するなと言ってるに等しい行為です。 もちろん、ローカルルールを設定しないなら、以上のことは、全く当てはまりません。 しかし、ローカルルールを設定するなら、それを事前に明らかにするのは、言うまでもない当然のことです

ルールを提示するなら明確に!

ローカルルールを設定する場合は、その内容の是非より、まず、その明確さが真っ先に問われます。 明確でないローカルルールは、その内容の是非以前の問題外です。

ローカルルールを設定するということは、それを守るべき人にとって堅苦しい環境を設定するということです。 他人に堅苦しさを押しつけるなら、自分も堅苦しさに耐えなければ、身勝手です。 不明確な部分に説明を求められて、「堅苦しいことを言うな」と説明を拒むのは、自分だけが堅苦しさから逃れようとしているだけです。 他人に堅苦しさを押しつけて、自分だけがノビノビしようというなら、それは、正しく、自分に優しく他人に厳しい=我が侭にすぎません。

何のためにローカルルールを設定するのかと言えば、未然に予測されるトラブルを防ぐためです。 しかし、そのためのルールが不明確で良いなら、ルールを設定する必要が最初から無いことになります。 必要の無いルールで他人を縛るのでは、ただの傲慢です。 言い替えれば、本当にローカルルールを設定する必要性があるなら、そのルールが明確である必要性もあるということです。

違反を犯したと叩かれる側に立ってみてください。 事前に明示されたルールに違反しているなら、それは違反した側が悪いでしょう。 しかし、もし、守るべきルールが明確でなかったとしたら、どうでしょう。 後付けのルールで「ルール違反はけしからん」と責められる方はたまった物ではありません。 そして、その後付けのルールは誰が決めるのでしょうか。 誰かが神になって、その時の都合で好きなようにルールを変えられるなら、それほど恣意的なルールはありません。 そして、それに対する唯一の防御策は、参加しないという方法しかありません。 つまり、不明確なルールは、不公平であるとともに、発言の自由をも奪う行為です。

議論に対する誤解

議論を毛嫌いする人が居ます。 嫌うのは自由だけど、嫌う人に限って、議論と論争の区別がついていません。 区別がついていないからこそ、議論も論争も一緒くたにして排斥しようとするのでしょう。

議論とは・・・

  • 敵意を持って相手を攻撃することではない
  • 特定の意見に固執したり、特定の意見に恣意的に誘導することではない
  • 議論は相手を言い負かすことではない

議論とは・・・

  • 感情的にならずに論理的に展開する
  • 自分の主張を丁寧に説明する
  • 他人の主張を尊重し、客観的視点で検証する
  • 論点を整理して、論理だけを厳選し、ただの印象に過ぎない物は却下する
  • 客観的検証によって因果関係が認められるものだけを根拠とする
  • 区別すべき物は区別し、相乗効果も別途検討する

他者の意見を拒絶しようとすれば、肩肘を張る必要が生じます。 しかし、他者の意見を容認し、尊重する限りは、肩肘を張る必要は全くありません。 議論には他者の意見の容認と尊重は必須であり、本末転倒にならなければ肩肘を張る必要は全くありません*6。 内容によっては受け入れない・・・と思うから肩肘を張る必要があるわけで、中立的立場で、どんな結論でも容認&尊重する姿勢があれば、肩肘を張る必要は全くありません。

議論において、肯定や否定は手段でしかありません。 肯定や否定が目的となったら、それは持論の強要=反論の排斥です。 反対意見を容認し、かつ、尊重するからこそ、議論なのであって、反論を排斥するならば、それは最早議論とは呼べません。 それは、議論ではないディベート*7です。

もちろん、容認=肯定でもなければ尊重=肯定でもありません。 どんなに尊重しようとも、採用に値しなければ却下します。 そして、却下は手段であって、決して、目的となってはなりません。 だから、もし、甲乙付け難い意見があるならば、決定的根拠が無い限り、一方だけを特別扱いしたりはしません。 そうやって、その時点における、かつ、他との比較として、優れた意見の集大成を完成させること、それが議論の目的です。 先にも述べた通り、集大成で複数の意見が並立するのはアリです。

ちなみに、TVの討論番組で見かける物は、ディベートでさえない低俗な言い争いです。 ディベートにもルールがあります。 しかし、そのルールさえ無視して、理路整然とした説明も無く、飛躍した論理と印象操作で強引にこじつけ、既存の反証を無視して堂々巡りに持ち込み、相手の発言を遮って自分が言いたいことだけを押しつけているだけでは、子供の喧嘩と変わりません。 教養番組の位置づけで低俗な言い争いを見せられても視聴者が文句を言わないのは、真の議論がどういう物か全く知らないからでしょうね。

他人の感情への配慮の重要性 - ay (2006年12月25日 21時27分19秒)

他人の感情への配慮を口実にして、自己の我が侭を受け入れろと言う人が少なくないので、正しい感情への配慮について書きます。

特定少数への配慮より不特定多数への配慮が優先する

webを訪問する人はロボットではなく人間なのだから、その感情に配慮すべきなのは、言うまでもなく、当然のことです。 しかし、配慮しなければならないのは、限られた特定少数の感情だけではありません。 訪問する全ての人、いや、まだ訪問していない人も含めた全ての人に配慮する必要があります。 何故なら、例えば、名誉毀損罪は、訪問していない人に対しても成立するからです。

不特定多数の感情に配慮しようとすると、その結果、一部の特定少数の感情が満足されないこともあります。 しかし、それは、受忍限度の範囲内では受け入れなければならないことです。 もちろん、受忍限度を超えた著しく不当な不利益を受ける場合は、話は別です。 しかし、そうでないなら、一般に、特定少数よりも不特定多数の方が優先されます。 特定少数の感情を満足させるために、不特定多数を犠牲にする方が間違っています。

この辺りを勘違いしている人が少なくありません。 特定少数の感情が満足されないことへの不満を述べるにあたって、「お前は人の気持ちがわかってない」とか、「お前は他人の感情への配慮が無い」と言う人がいます。 しかし、先にも述べたとおり、不特定多数の感情へ配慮しようとしていても、特定少数の感情が満足されないことは往々にしてあることです。 だから、特定少数の感情が満足されないことをもって、「お前は人の気持ちがわかってない」や「お前は他人の感情への配慮が無い」と決め付けるのは間違っています。 特定少数がその満足を得ることによって不特定多数に犠牲を強いることが無いのか、その人物が不特定多数の感情へ配慮しようとしていないか等を検証せずして、そのような断定はできないはずです。 もし、それが、不特定多数を優先した結果であるのならば、それに文句を言う貴方の方が、他人の感情へ配慮が欠けている人間ということになります。

まずは、自分自身が特定少数の感情を優先していないか、不特定多数の感情を軽視していないかを検証すべきでしょう。 物を言うのは、それからでも遅くはありません。

不特定多数への配慮には公平さが不可欠

一部の特定少数へ傾倒せず、不特定多数にまんべんなく配慮するには、公平であることが絶対条件です。 そして、自身の感情に振り回されては、公平であることはできません。 事実関係をきちんと検証し、先付けのルールに従った論理に基づいて、物を言うべきです。 他人の感情を重視するからこそ、その手段として論理を使うのです。 論理が感情を犠牲にすると主張する人はいますが、それは、自分に都合が悪い論理を拒絶しているだけに過ぎません。 それは、とりもなおさず、不特定多数を犠牲にしてでも、我田引水しようとする行為に他なりません。

弁証能力の欠如は言い訳にならない

「私は話術が達者ではないから」との言い訳は、相手がいる場合は成り立ちません。 と言うより、そうした言い訳が必要となる場合は、まず、相手が存在します。 自己の能力の欠如は、相手に全く非の無い自己都合に過ぎません。 自分の言動が相手に何らかの不利益を及ぼしているなら、その責任を問われるのは当然であって、自己都合を理由に免責してもらおうとするのはムシが良すぎます。

そのような言い訳をする人は、他人の感情への配慮が完全に欠けています。 何故なら、その言い訳を受け入れて免責すれば、その代償として、相手が言われなき不利益を受け入れなければならなくなるのですから。 相手の立場で物を考えれば、自己都合で免責を要求することが著しく不当な要求であることくらい、すぐ分かるはずです。 それが分からないということは、自分のことしか考えてないということです。

弁証能力が足りないのであれば、日頃から、他人を傷つけないよう注意して行動すべきです。 そうした注意を怠ったことによる結果責任を、何の罪も無い赤の他人に背負わせようとすることが厚かましい。 自分の行動の結果は、自分で背負うのが当然です。

(続)他人の感情への配慮の重要性 - ay (2006年12月27日 21時24分42秒)

自分が不利益を受ける場合に、「私は話術が達者ではないから」という理由で不利益解消を拒むのは自由です。 しかし、他人に危害を加えておいて、「私は話術が達者ではないから」という理由で、被害者の不利益解消を拒むのは身勝手です。

被害者の立場で考えてみれば、良く分るはずです。 どんなにいわれの無い非難であっても、弁証機会を与えられた上で、その機会を活かせないなら、自分の力量不足だとあきらめもつきます。 しかし、加害者の「話術が達者ではない」という理由で、加害者から一方的に弁証機会を剥奪されるのでは、到底納得できないでしょう。 それは、被害者には何の責任も無いことだからです。 どんなに、常日頃、人に後ろ指を指されないよう努めていても、加害者側の「話術が達者ではない」場合は、有無を言わさず一方的に非難され、それに対して異議を申し立てる機会は与えられないのです。 そんな馬鹿な話がありますか?

このように、「話術が達者ではない」と言い訳する人は、自分のことしか頭になく、他人のことなど全く考えていません。 本当に「話術が達者ではない」としても、他人のことをまじめに考えているなら、「自らの主張を証明できない以上は私が全面的に間違ってる」と潔く引き下がるでしょう。 「俺は間違ってない」と言いながら、「話術が達者ではない」ことを理由に弁証を拒むのは、自己中心的な人間の言動です。

web上での弁証に話術は不要

そもそも、「話術が達者ではない」ことは、弁証できない理由になっていません。 私も「話術が達者」ではなく、実社会のディベートでは勝った試しがありません。 しかし、web上では、弁証から逃げたことはありません。 大抵は、相手の方が言い訳して逃げるくらいです。 では、「話術が達者」ではない私が、web上の弁証で無敵を誇る理由は何でしょうか。 それは、努力では誰にも負けていないからです。 webでは、誰でも、足りない能力を努力で補えるのです。

  • 残された発言をいつでも検証できる
  • 即答しなくて良く、じっくり考えてから発言できる
  • webには有益な資料が多く、論理展開の具体的な根拠を提示し易い

実社会では、相手がどんなに矛盾に満ちた主張をしていても、聞き逃したり、その時に気づかなかったら、それまでです。 しかし、webでの発言は消さない限りいつまでも残っています。 だから、何度も何度も読み返して、おかしな所が無いか隅から隅まで調べることができます。 実社会では見逃してしまって取り返しのつかないことも、webでは後から努力すれば見つけることができるのです。

リアルタイムの会話でなければ、投稿を慌てる必要もありません。 何度も推敲してから投稿するようにすれば、迂闊な発言をしなくて済みます。

webには、論理展開に説得力を持たせるための有益な資料が多数あり、URLを示すだけで資料の説明を有効活用することができます。 例えば、正当防衛緊急避難等、法理に関する物であれば、Wikipediaから容易に拾って来れます。

web上に限れば、そうした努力の有無が、弁証能力を大きく左右します。 実社会では、頭の良い者や回転の早い者が有利ですが、webでは、努力する者が一番有利なのです。 それなのに、「話術が達者ではない」と言い訳するのは、努力を放棄しているだけです。 自分の横着のために他人に危害を加えるのは人として最低な行為です。

補足

某所で曲解&歪曲する奴がいたので補足。

私が「web上の弁証で無敵を誇る」のは、「努力では誰にも負けていないから」です。 これは、相対的な言い方だから、私が努力していることだけでなく、相手の努力が足りないことも意味しています。 これは、噛みついて来る人に努力家がいないだけに過ぎません。 もちろん、相手が私を上回る努力家であれば、勝ち目はないでしょう。 では、どうして、噛みついて来る人に努力家がいないのでしょうか。 それは、努力家であれば、自分の間違いに自ら気づくからでしょう。 努力もしないアホばっかりが噛みついてくるという事実が、主張の正当性の何よりの証拠です。

努力の可否は、webであることとは全く無関係です。 ただ、実社会では努力で才能を補うのが難しい一方で、webでは才能を努力で補い易いというだけです。 だからこそ、努力の差が、実社会では功を奏さなくても、webでは結果の差に繋がるということ。 webでだけ努力をするという話ではありません。努力は常日頃から必要なことです。

証明の必要条件 - ay (2006年12月30日 19時20分12秒)

よく、「間違いを冒さない人は居ない」と言います。 これは、弘法も筆の誤りと言うように、定性的には全く正しいことです。 しかし、定量的なことを全く考慮していません。 例えば、学力試験を考えると良いでしょう。 毎回、高得点を取る人も居れば、毎回、低得点を取る人も居ます。 このように、正答率や誤答率は、その人の能力や努力に依存して変化するのであり、全ての人が同じわけではありません。 つまり、答案が正しいかどうかは、答案の内容を見なければ評価できないのであって、答案の内容を無視して点数をつけることは出来ないのです。

ところが、web上で「間違いを冒さない人は居ない」という論理を持ち出す人は、決まって、事実関係を踏まえて物を言いません。 しかし、間違いの有無を無視して、何が何でも間違いを認めろというのは無茶な要求です。 間違ってるのに間違いを認めないのは間違いであるように、間違ってないのに間違いを認めるのも間違いです。 間違っているからこそ間違いを認めなければならないのであって、間違えてないなら間違いを認めないのは当然であり、それは意固地でも尊大でも何でもありません。

言い替えると、「間違いを冒さない人は居ない」という論理を持ち出しても、誰かの間違いを証明したことにはなりません。 もし、本当に間違いがあるなら、何がどう間違っているのか、事実関係や理由をきちんと説明できるはずです。 もし、誰一人として間違いを説明できないのならば、それは、間違いが無いことの証明となるのであり、間違ってると言う方が間違ってることになります。

確かに、「間違いを冒さない人は居ない」は、間違いがある「かも知れない」ことを示しています。 しかし、物事の根拠が「かも知れない」で良いのならば、何とでも言えてしまいます。

  • 相対性理論は間違ってる「かも知れない」
  • 人類は月に行ってない「かも知れない」
  • インテリジェンスデザインは正しい「かも知れない」
  • 今坂唯笑は実在の人物がモデルになってる「かも知れない」
  • レイザーラモンHGは女「かも知れない」

可能性を否定する証拠が提示できなければ*8、これらが間違いだとは断言できません。 しかし、それらが、一体、何を証明しているのでしょうか。 言うまでもなく、何も証明しません。 だから、「かも知れない」だけで不服を言うのは、単なる言い掛かりに過ぎません。

人の振り見て我が振り直せ - ay (2007年01月15日 19時15分51秒)

最初は好意的な態度を装って近づいておいて、自分の主張が通らなくなると一転して態度が豹変する。 このパターン、一体、何度目?(詳細は過去ログ参照) ある人の公式掲示板での発言を非難しておいて、何処が問題かと聞かれても無視し続け、最後には、公式掲示板ではなくこの場所の発言だとか、タイムパラドックス的に話をすり替える。 捨てハンを用いて近づき、主張が通らなくなると人を小馬鹿にした言い方をする。

相関関係と因果関係をすり替えるのも典型的な特徴。 賛成か反対かに関わらず、真摯な態度で臨んでいるかどうかで荒らし判定しているのに、さも、「反対派」を不当に扱ってるように言う。 「反対派」には真摯な態度で臨む人がいないから、結果として、「反対派」ばかりが荒らし扱いされるという相関関係に過ぎないことを知りながら、「反対派」だから荒らし扱いされるという大嘘の因果関係を捏造する。

何より、自分に出来ないことを他人に強要する傲慢さ。 人の振り見て我が振り直せとは、このことだろう。 他人の気持ちを想像することができないのだろうか。 他人の立場に立って物を考えることが出来ないのだろうか。 それは、能力の問題ではなく、努力の問題のはずである。

「頭から否定された」

三省堂国語辞典によれば頭からとは次のような意味である。

初めから。のっけから。てんから。 「−きめつける」

また、これは頭ごなしと同義である。

相手の言い分も聞かずに、初めから一方的にきめつけた態度をとること。 「−にどなりつける」

さて、学力試験の回答欄を全て埋めて0点だった時に、誰が「頭から否定された」と言うだろうか。 一部にでも惜しい答えがあれば部分点を要求するのは分かる。 しかし、どんなに完全に埋めても、全ての答えが全くの出鱈目なら0点になるのは当たり前である。 全てが出鱈目であるなら、全て否定されて当然。 そして、否定された理由は出鱈目だからであって、「頭から」でも「頭ごなし」でもない。 掲示板での主張も同じである。 聞き入れる余地が少しでもあることを言ってるなら、妥協や譲歩を要求するのは当然だろう。 しかし、身勝手な暴論をどんなに多数並べたところで、何一つ認められないのは当然である。 そして、否定された理由は身勝手な暴論だからであって、「頭から」でも「頭ごなし」でもない。

どんな要望であろうと一定割合で聞き入れなければならないと言うなら、多数並べれば、どんな要望でも通ってしまう。 二つに一つは聞き入れるというルールを作れば、10個の要望を通したい時は、ダミーも含めて20個の要望を並べれば良い。 そうすれば本命の10個の要望は確実に通せる。 ・・・そんな馬鹿な話があるだろうか。 百個でも千個でも一万個でも全て不当であれば全て却下し、1個しかなくても内容が妥当であれば聞き入れるのが正常な態度ではないのか。 単純に数だけ見て、全却下だからと言う理由では、「頭から」だとか「頭ごなし」だとかは成り立たない。

結局、内容を見ずに数だけ見ても、「頭から」だとか「頭ごなし」だとは言えない。 結論を先に決めずに、個々の内容をきちんと検討し、結果論として否定されたのであれば、「頭から」でも「頭ごなし」でもない。そして、否定行為が「頭から」や「頭ごなし」かどうかは、同様に却下理由をきちんと検討しなければ分からないことである。 それなのに、却下理由に見向きもせずに「頭から」だとか「頭ごなし」だと言うのは、聞く耳持たない人間のやることであり、それこそが「頭から」であり「頭ごなし」である。

「匿名でないと怖い」

他人を非難しておいて、「匿名でないと怖い」と平気で言ってのける人間がいるが、その人は、いったい、どんな神経をしているのかと、人間性を疑う。 何しろ、自分は安全なところに身を隠しながら、他人を平然と危険な目に遭わせるだから、こんな身勝手な話はない。 他人を恐怖に突き落として、よくも言えた台詞である。

捨てハンに非難されるコテハンの方がよっぽど怖いに決まってる。 自分が恐怖を回避したいなら、他人が回避する権利も認めないといけない。 他人を恐怖に突き落とすなら、自分も恐怖に耐えなければならない。 そんな当たり前のことが分からないのは、自分のことしか考えてないからである。 少しは他人の立場で物を考えるべきだろう。

「私には出来ない」

したくもないことをさせる羽目に他人を陥れておいて、自分がさせられる番になると「私には出来ない」と逆ギレする。 言いがかりに対応するために、他人が、どれだけ無駄な手間をかけさせられているのか、想像もしないのだろうか。 まさか、論理的思考が何も考えずとも自然に浮かんでくるとでも思っているのだろうか。 だとすると、余計に滑稽である。 何故なら、そんな超絶的議論力を持った人間に凡人が議論を挑む愚かさに気づいていないのだから。 必死に考えても論理的思考の出来ない奴が、自然に論理的思考が浮かぶ人に勝てるわけがない。 そんな人と対等な議論が出来ると思ってるなら、それはとんでもない思い上がりである。 素人がプロボクサーに喧嘩を売って、圧倒的な実力差を認めながら、ガチンコ勝負で勝てると思ってるような物である。

論理的説明が出来ないなら他人を非難するな。 論理的説明が出来ないなら自分の非を認めよ。 それは基本的マナーである。 論理的な説明ひとつ出来ないで「おまえが悪い」と言うことが許されるなら、それは相手にも同様に許されなければならない。 論理的説明なしの非難が許されるなら、論理的説明付きの非難には全く非の打ち所がない。 それなのに、自分のやってることを棚に上げて堂々と文句を言う。 論理的説明なしに他人を非難しておいて、論理的説明付きの反論に対して逆ギレする。 何と厚かましい行為か。

合法なら問題ないか? - ay (2007年06月08日 19時42分07秒)

合法なら問題ないと主張する輩が居るが、その輩にコムスン事業譲渡問題はどうなのかと問うてみたい。

簡単に説明すると、脱法行為による処分逃れが問題の本質である。 訪問介護最大手のコムスンは、虚偽申請で事業所指定を不正取得したことが発覚し、厚生労働省から指定打ち切り処分を受けた。 そのため、新規の申請や更新ができなくなった。 そこで、グループ内企業へ事業譲渡して、処分をリセット(法的に譲渡先の企業は善意の第三者となるため)しようと目論んだのが、本件問題である。 厚生労働省は、「介護保険法の想定外の事態」として、事業譲渡行為には違法性がないことを認めている。 しかし、行政処分を逃れようとする脱法行為であり、事業譲渡の凍結を指示した。

もし、合法なら問題ないとするなら、このような厚生労働省の指導は不当となるはずである。 その論理で言えば、違法性がない以上、事業譲渡を咎められる理由は全くない。 むしろ、厚生労働省の方が言い掛かりで難癖をつけていることになる。

脱法行為が問題となるのは今回が初めてではない。 脱法行為が表面化し、社会問題となる都度、法律は改正されてきた。 合法なら問題ないのであれば、このような法改正の必要性は全くないはずである。 合法なら問題ないと主張する輩は、それらについて、どうコメントするのだろうか。

思考停止こそ最大の罪 - ay (2007年08月03日 02時39分41秒)

「俺様は難しいことなんて考えたくない。楽して楽しく暮らしたんだ。」と思うのは自由です。 しかし、それを強引に押し通すのは、小学生並みの我が侭に過ぎません。 誰だって難しいことは考えたくありません。 自分だけの問題なら、好きなだけ思考放棄すれば良い。 しかし、集団生活では、難しいことを考えずに済ますことはできない。 集団生活での思考放棄は、他人に多大な迷惑をかける行為です。

皆が好き勝手なことをやって、何のもめ事も起きない・・・ということはあり得ません。 もし、そんなことが実現し得るなら、どうしてもめ事が起きるのでしょうか。 皆が好き勝手なことをやれば、必ず、権利が衝突し、もめ事が起きます。 皆が公平に楽しさを享受するためには、皆が一定の我慢をする必要があります。 それによって、皆が公平に、一定の制限の元での、それなりの楽しさを享受できるのです。 何の妥協もない最大限の自由を満喫しようとすれば、その分、誰かが割を食って著しく不当な我慢を強いられます。 つまり、皆が一定の妥協をすることによって、皆が公平に楽しくやって行けるのです。

他人がどうなっても構わない、自分だけが楽しければ良いと言うなら、思考放棄しても何も支障はありません。 公平なんて糞食らえ、俺様だけが楽しければ良いと言うなら、自分のやり方を他人に押しつけ、力づくで言うことを聞かせれば良い。 ただし、そのやり方が通用する保証はありません。 何故なら、他の人も同じように考えるからです。 貴方が力づくで他人に言うことを聞かせようとするように、他人も力づくで貴方に言うことを聞かせようとします。 そして、力で負ければ、言うことを聞かされるのは貴方の方です。

力が支配するルールに従えないなら、公平な妥協を受け入れるべきでしょう。 問題は、どうやって、公平な妥協ラインを決めるかです。 一部の人だけが我慢を免れるのは不公平です。 また、一部の人だけに多大な我慢を強いるのも不公平です。 皆が公平に一定程度の我慢を強いられるように、バランスを取るのは容易ではありません。 だから、公平な妥協ラインを決めるためには、難しいことを考える必要があるのです。

必要があるのに、自分が考えたくないからと言って、議論を妨害するのは、自分勝手な我が侭です。 そんなに考えるのが嫌なら、考えている人に全権委任すれば良い。 そして、考えている人が出した結論に黙って従えば良い。 従うのが嫌なら、従わなくて良いような考えを示せば良い。 考えないが従わない・・・は、自分勝手な我が侭に過ぎない。

超ドーデモイイ話 - ay (2008年04月30日 03時00分28秒)

もちろん、このサイトに書いてあることにも間違いは当然あるであろうし、説明がまずい部分もあるだろう。 そんなことは当たり前である。 しかし、だからこそ、より完璧に近付こうと努力をするのである。 そういう努力をしない人ほど文句が多い。 具体的描写について言及せず、主観的な解釈を断定的に述べている場合、実際にリプレイしてみると、その人の解釈とゲームの描写が180度違っていることも珍しくない。 だから、このサイトでは、極力、具体的描写に言及するようにし、可能ならばテキストを引用している。 このサイトは努力の塊と言っていい。 正直、どの考察サイトと比べても努力度では群を抜いているだろう。 努力マンの努力バリアーそのものである。

苦もなく理解した人は、理解できない人にとって何が理解の妨げとなっているか分からない。 分からないからこそ、試行錯誤で、説明を模索する。 他人への説明とは、自分にとって当たり前の事を、何故、それが当たり前と考えたかを深く掘り下げ、その結果を延々と記述していく作業である。 ハッキリ言って、その作業は苦行でしかない。 当たり前のことを当たり前と思う理由を考えるなんて、普通の人はしない。 当たり前のことを説明することこそが、最も難しい説明だと言える。 それでも、時間を割いて説明文を考えるのは、少しでも多くの人に情報を提供しようとするからだ。

論理的思考ができる人を相手にするなら、このサイトの記述の大部分は無駄だと思う。 このサイトは、論理的な思考が得意でない人にも分かるように努力して書くことを原則としている。 同じレベルの人と最低限の情報交換だけで阿吽の呼吸で通じるのが気持ちいい。 レベルの違う人と議論するのは不快でしかない。 その不快さと闘いながら文章をまとめているのである。 しかし、説明の手間を増やさせている張本人に限って、些細なことの揚げ足取りをしたがる。 最近も、このサイトの次の記述について揚げ足取りがあった。

中澤氏と打越氏のコンビが、そのようなミスをするとは考えられません。

作品を駄作だと思ってる人は考察サイトを読みあさったりしないはずだから、このサイト等に書いてある考察を読んでいる人は、作品を駄作だと思いたくないのが共通認識であろうという前提で、文章を書いている。 それを踏まえて、なるべく簡潔にまとめるため、読む人へのリップサービスの意味も兼ねて作者を持ち上げた記述を書いている。 該当部の現在の文章は4倍以上の長さになっている。 皆まで言わなくても通じるようなことなのに厳密な文章を書くのでは、読む方も書く方も時間の無駄だろう。

そもそも、この部分は、考察の主要部分とは全く関係がない。 基本的な必須描写が抜けていることについてミスで片付けて良いかどうかを問うために書いたことであって、作者をどれだけ信奉しているかは、考察内容とは全く関係がない。 元々、作者が馬鹿だと思う人を相手にしていないのだから、作者の信奉度合いを議論の対象とする必要は全くない。

web否定意見の正当性(案) - ay (2009年04月02日 17時24分41秒)

以下、正式にページを作る前の構想段階の原稿。

世の中には、否定意見を述べてはならないと主張する人がいる。 堂々と言論の自由を封じようとして、全く恥ずかしいと思っていないのだろうか。

否定の本質

意見Aを否定することは、NOT(A)を肯定することに他ならない。 つまり、意見Aを否定することは、NOT(A)という新しい意見を言ってるだけに過ぎない。 否定意見とは、それ以上でも、それ以下でもない。

否定意見を強要していると言う人がいるが、それは、全くの見当違いだろう。 単に意見を述べることが強要になるならば、同じ理屈で肯定意見も強要となる。 同じ理屈を適用すれば、肯定者は肯定意見を否定者に強要しているのである。 何故なら、意見Aを肯定することは、NOT(A)を否定することだからである。 肯定意見も否定意見も、意見の方向性が違うだけで、行為の性質に差があるわけではない。

言うまでもなく、公共の場での意見表明は、他人に何らかの影響力を与えようとする行為である。 与えようとする影響力が、任意の選択の範囲に留まるか、あるいは、強要であるかの違いはあるが、どちらにしろ、他人に何らかの影響力を与えようとしていることに変わりはない。 そして、強要の度合いと意見の方向性(肯定か否定か)には何の関係もない。 肯定意見でも否定意見でも、強要しようとする人は強要するし、強要しない人は強要しない。 強要するという行為そのものが問題なのであって、その問題と意見の方向性(肯定か否定か)は全く関係がない。 否定意見だけが強要だとする主張には何の根拠もない。 にもかかわらず、強要が否定意見特有の問題であるかのように言うのは、論点のすり替え以外の何物でもない。

肯定意見も否定意見も、それを表明することは何が正しいかを議論するための行為でしかない。 仮に、その意見の内容を強要しても従わせることは不可能である。 どんなに強要しようとしても、それだけでは各自の任意の意思を変えることはできない。 その意見に従うかどうかは、その説明内容の説得力に左右されるのであって、発言者の強要の度合いとは関係がない。 不可能を実行しようとしている人間がいたとしても、無視すれば良いだけで目くじらを立てる必要は全くない。 それなのに、敢えて目くじらを立てるとするならば、相手の説得力を恐れているとしか考えようがない。 つまり、自分の意見を強要しようとしているのは、否定意見を封じようとする人間の側である。 自分の意見からの離反を防ぐ手段として、説得力のある否定意見を封じているだけなのだ。

間違った意見を信じるのも自由である。 しかし、何を信じるかとは関係なく、間違いは間違いである。 信仰の自由があるからといって、信じたことが正しくなるわけではない。 そして、信仰の自由があっても、「間違いを間違いと言うな」と強要する権利は誰にもない。 信仰の自由は、議論を排斥する理由にはならない。

情報選択権

意見は発言する人だけの物ではない。 それを受け取る側にとっては貴重な情報である。

ただし、中には、情報価値のないカス情報もある。 しかし、貴方にはそれを検閲する権利はない。 貴方個人が何を選択するか貴方自身が決めることである。 しかし、貴方以外の人が何を選択するかは、貴方が決めることではない。 貴方が見たくないというだけの理由では、他人の選択権を侵害する理由にはならない。 もちろん、名誉毀損等、社会的に問題のある意見は一定の制限を受けても仕方ない。 しかし、社会的に問題のある意見ではなく、かつ、その意見に有益さを認める人が発言者以外に1人でもいる限り、その意見を封じることには迷惑行為以外の何物でもない。

見たくなければ見るな、聞きたくなければ聞くな、それだけのことである。 見たくなくても他人にも見せないようにする権利はない。 聞きたくなくても他人にも聞かせないようにする権利はない。 自らの意思で雑多な意見の集まる場に来たのだから、そこに気に入らない意見があると文句を言うのはお門違いである。 雑多な意見の集まる場であれば、聞きたくない意見も集まってくるのは当然である。 分かっていてやって来た以上、聞きたくない意見に出会うのも自己責任である。 その覚悟がないなら、雑多な意見の集まる場に来るべきではない。 それが分かっていないなら、それは、その人の無知が問題なのであって、意見を言った人間に罪はない。

人格権

どうやら、否定意見に目くじらを立てる人は、自分の主張する意見を自分自身の分身と見なしているようだ。 だから、自分の主張する意見を否定されることで、自分自身も否定されたように思うのだろう。 もちろん、そう考えるのは個人の自由である。 しかし、だからと言って、それは言論封殺する正当性にはならない。 自分の勝手な思い込みを理由に他人を縛ろうとすることが間違いの元である。 自分自身も否定されたように感じるのは、否定意見のせいではない。 自分が述べた意見と自分自身を区別できない、その人自身の個人的問題である。 否定意見に文句を言う前に、まず、自身の心の問題と向き合うべきだろう。

言論封殺

否定意見を言ってはいけないというルールを適用すると、誰かが意見Aを主張すると、その後は、誰もNOT(A)を主張することはできなくなる。 だから、否定意見を封じることは、新たな意見を封じることに等しい。 例えば、「人を殺して良い」と誰かが言えば、誰も「人を殺してはいけない」とは言えなくなるのだ。 これに対して、「それは社会的に問題のある言動だから、例として適切でない」という人も居るだろう。 では、「1+1≠2」と誰かが言った場合は、誰も「1+1=2」とは言ってはいけないのか。 これに対して、「明らかに間違った意見なのだから、例として適切でない」という人がいたら、それは、全く見当違いの意見である。

根拠のない信仰を述べるだけなら、水掛け論にしかならない。 それは、言って良いかどうか以前に、他人には全く意味がない。 根拠もなく「俺は思う」と言うだけなら、本人以外には何の意味もない意見である。 空飛ぶスパゲッティ・モンスター教を信じる人がいたら、貴方はそれを信じるだろうか。 常識で考えて、「そう思う人もいる」という認識を持つ程度に過ぎないだろう。 それと同様、自分が何を信じようと、他人が信じる内容には影響を与えない。 そうした他人に影響を与えない信仰を披露することは、自慰行為を人前に晒して喜ぶのと等しい。 ここでは、露出狂に文句を言うつもりは全くない。 しかし、信仰を披露することは、否定意見の是非とは全く違う次元の話である。

他人が見て意味があるのは、肯定意見であるか否定意見であるかに関わらず、一定の根拠に基づいた意見である。 根拠のない否定意見は、信仰を披露しているだけで、他人には全く意味がない。 そうした無意味な否定意見に目くじらを立てる必要はない。 「言いたい奴には言わせておけ」である。 露出狂は放置すれば済む。 そうした信仰を除いた意見は、全て、一定の根拠に基づいて何が正しいかを論じる意見である。 否定意見に限れば、全て、間違った意見を一定の根拠に基づいて正そうとする意見である。 少なくとも、否定意見を主張している本人は「明らかに間違った意見」を否定していると認識している。 「明らかに間違った意見なのだから、例として適切でない」とする主張が見当違いと言ったのは、このためである。 もちろん、否定意見がその条件を満たしていない場合もあるが、その場合は、条件を満たさない理由を述べれば事足りる。 そのためには、否定意見が間違っていることを示す必要は全くないし、否定意見を封じる必要も全くない

手段の公正さ

否定意見だからと言って、非があることにはならない。 非がある行為は、必要がない(意見を説明する上での必要性のほか、その意見を述べることの必要性も考慮すべき)のに名誉毀損や侮辱を行なったり、詭弁を弄したりすることである。 そうした卑怯な言動手段の是非は、否定であるか肯定であるかとは関係がない。 否定意見であっても、肯定意見であっても、卑怯な言動は正当化されない

そうした言動手段の公正さを一切問わずに、否定意見という理由だけで批難するのは、対戦相手に言い掛かりを吹っ掛けて卑怯者に仕立て上げるような行為である。 それは、負けたくないからと手段を選ばないだけに過ぎない。 否定意見を封じようとする人は、弱者であることを言い訳にしているだけだ。 自力では守れない意見を強硬に守る手段として、言論封殺という手段を選択しているに過ぎない。 そのような身勝手な理由での言論封殺こそ、批難されて然るべきである。 フェアプレーで負けるのが気に入らないなら、自分が強くなるよう努力すべきであって、他人の足を引っ張るなど、もってのほかであろう。

弱者の選択

初めから人前で意見を言わないという選択もある。 人前で意見を言うことは、他人に何らかの影響を与えようとする行為に他ならない。 何故なら、他人に影響を与えるつもりがないなら、人前で言う必要がないからだ。 そのような意見ならチラシの裏にでも書いておけばよい。 他人に見られない場でコッソリ行動すればよいのに、わざわざ人前で言うのは他人への干渉行為以外の何物でもない。 他人に干渉しようとしておいて、それに対する干渉を批難するのは身勝手すぎる。

否定意見を封じるのは、ヘロヘロ球しか投げれないピッチャーが、バッターに打つなと言うに等しい。 そして、打ったバッターが悪いと批難するのは、非常に見苦しい弱者の言い訳である。 ヘロヘロ球しか投げれないのに打たれるのが嫌なら、ピッチャーマウンドに立たなければ良い。 打ったバッターを批難するのは見当違いも甚だしい。

何でもかんでも弱者であることを言い訳に出来ると思ったら大間違いである。 スポーツも議論も、誰もが対等な条件で臨むことに変わりはない。 スポーツの場合は、事前に公正な手段を用いてハンディキャップ(以下、「HCP」)を設定することがあるが、HCP値を設定後に一度プレイを開始したなら、途中でHCP値を変更することはできない。 HCP値が妥当でないならばプレイ開始前に見直すべきである。 自分にとって不利なHCP値であるならばプレイ前に申請すべきなのである。 負けそうだからと、途中で、HCP値を変えることはできない。 弱者であっても最低限のルールは守らなければならないのである。

議論においては、HCPを設定することはない。 その理由のひとつは、議論の目的が真実を見出すことであるからである。 HCP値によって真実が変わってはおかしい。 また、オープンな議論であれば、HCPがなくても弱者が特別に不利になることはない。 何故なら、オープンな議論には誰でも参加可能で、どのような立場を取るかは参加者の自由意志に委ねられているからである。 賛成反対、どちらにも、助っ人が来る機会は均等に与えられている。 よって、弱者であることは何の言い訳にもならない。

そもそも、自分だけ特別扱いしてもらおうとする考えが身勝手である。 「自分に自由な主張をさせろ!肯定意見は言っていいが否定意見は言うな!」と言う人は、自分の都合しか考えていない。 それならば、どうして、自分と真逆の意見を持つ人に同じ権利を認めないのか。 自己の権利を主張するなら、他人にも自分と対等な権利を認めるべきだろう。 自分の発言の自由を主張するなら、肯定意見にも否定意見にも発言の自由を認めなければならない。 自分だけ権利を主張しておいて他人に対等な権利を認めない、自分の権利を守るために一方的に他人の権利を制限する、そんな身勝手が通用すると本気で思っているのだろうか。 特別扱いされない立場の人間や誰かを特別扱いすることによって不利益を被る人間のことを全く考えていない人には、弱者特権を主張する資格はない。

Last modified:2010/08/21 20:29:20
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*1 「ちょっとぐらいええやんか」と言って二重駐車する大阪のおばちゃんと同じ。 あんたにとってはちょっとなんだろうけど、他の人にとってはそうじゃない。 自分のちょっとのために他人に迷惑をかけても平気なのが信じられない。 本当にちょっとだったら自分の方が我慢すべきなのでは?

*2 典型的なガキの論理

*3 この例では、ステーキのためのお金のやりくり

*4 例に当てはめれば、本題=ステーキ、前提事項=お金

*5 先の例で言うと、「家計が破綻して明日から家族が路頭に迷っても知ったこっちゃない、俺はステーキが食えればいいんだ」と言ってるのと同じ

*6 ただし、議論のルールに反する人が居る場合は、そのルール違反を排除するにあたっては、肩肘を張る必要性が生じます

*7 ディベートは論破テクを競うもので、真の議論とは程遠い

*8 例示した物の中には提示できる物もあるが、論点からずれるので、それには言及しない