マナーの原則
情報を発信する意味、論理的主張の勧め、多数決の論理、荒らし対応マニュアル、もご覧ください。
人からの思いやりは見えにくい
人が生きて行くには空気が必要です。 しかし、地球上に空気は満ち足りています。 普通に生活していると空気が足りなくなることはありません。 そのせいで、空気の存在を忘れて、そのありがたみを感じるいない人が多いことでしょう。
一人暮らしをすると親のありがたみが身にしみるでしょう。 炊事、洗濯、掃除、これらがどれだけ大変か。 ご飯が勝手に炊きあがるわけではありません。 買って来ないと食材さえありません。 まとめ買いすると腐らせてしまうので、こまめに買いに行く必要があります。 そして、食べた後の後片付けも大変。 掃除しないとホコリは直ぐに溜まります。 洗濯物もあっという間に溜まります。
それと同じで、人は、よく、他人から受けている配慮を忘れてしまいます。 配慮されていることに馴れすぎて、既にある配慮の存在を忘れ、そして、更なる配慮を要求し、その要求が通らないと「配慮が無い」と文句を言ったりしていませんか。
この世には特別な人なんて存在しません。 それは、貴方も私も例外ではありません。 配慮は全ての人がすべき物で、一部の人だけに押し付けて良い物ではありません。 しかし、他人からの配慮が足りないと文句を言いながら、他人への配慮を何もしない人も少なくありません。 他人の文句を言う前に、貴方が適切な配慮をしているかどうか省みましょう。
人の振り見て我が振り直す
他人に「やるな」(もしくは「やれ」)と言ったことを自分がやる(もしくはやらない)人は少なくありません。
- 他人を非難するなと言いながら他人を非難する人
- 他人を思い遣れと言いながら全く思い遣りのない人
- 自分の礼儀がなってないのに他人の礼儀作法に文句を言う人
- 自分の言いたいことだけ言って他人には物を言わせない人
- 他人が間違いを認めないと言いながら自分は絶対に間違いを認めない人
- 人それぞれ考えが違うと言いながら自分の物差しで他人を測ろうとする人
我が侭な人ほど文句が多く、謙虚な人ほど物を言わない傾向があります。 謙虚な人が正論を胸に秘めてしまうことも問題がありますが、我が侭な人の文句ほど困ったものはありません。 我が侭な人が言う文句には、論理的説明がありません。 そう、論が無いのだから、反論ではなく反発なのです。 このような人は、自分がやっていることを相手にやられたらどんな気持ちになるか、一度で良いから、想像してみるべきでしょう。 裏付けの無い唐突な結論だけ、つまり、「オレ様が絶対に正しい、黙って従え」と言われ、反論も検証も許さない、そんな態度を相手に取られたらどう思うか考えてみるべきでしょう。
礼儀作法
ネットで求められる礼儀も基本は実社会と変わりないけれど、詳細はかなり違っています。 「礼儀、礼儀」と言うとうるさい奴だと思うでしょう。 しかし、礼儀の基本は、実に、簡単で、かつ、どんな社会にも必要不可欠な物です。 礼儀なんて言い方をすると仰々しいけど、実は、単に、思い遣りで互いに不快な思いをしないようにしようってことに過ぎないのです。 他人に不快な思いをさせられたくないなら、自分も他人に不快な思いをさせてはいけないというだけのことです。 そう、礼儀として重要なことは思いやりであって、表面的な言葉遣いではありません。
礼儀の最も重要な基本は簡単です。 自分が出来ないことは他人に求めない、他人に求めることは自分もする、です。 自分に優しいなら他人にも優しくあるべきで、他人に厳しいなら自分にも厳しくないといけません。 他人に厳しく自分に優しいのは身勝手です。 人は誰でも自分を贔屓してしまうので、若干、自分に厳しめにするとバランスがとれます。 とはいえ、自分に厳しすぎるのも考え物です。 何故なら、それは、他人への厳しさに繋がるからです。 自分に厳しすぎることが美徳として認められれば、誰もが自分に厳しいことが求められるようになります。 そうなれば、自分だけの問題で済まなくなります。
形式的な礼儀作法にうるさい人が居ます。 形式を疎かにして良いとは言いません。 しかし、中身の伴わない形式だけの礼儀作法は無意味です。 敬語を正しく使っても他人に失礼を働くことは容易に出来ますし、敬語を正しく使ったからと言って失礼が許されるわけでもありません。 逆に言えば、敬語を使わなくても他人に敬意の気持ちを表すことも可能です。 敬語は敬意を表す手段の一つにすぎないのであって、手段は目的には成り得ません。 敬語至上主義より、中身に込められた敬意に拘る方が重要でしょう。 また、敬語に関する認識も実社会とネットには温度があります。
実社会とネットが違う例
普通、ネットで「俺様は年上だからお前らは敬え」と言う人は居ないですよね。 ayもそうです。 ayは、おそらく、メモリーズオフ関係ユーザでは最高齢に近いだろうと思います*1。 しかし、だからと言って、ayは、皆に敬えと言うつもりも敬語を使えと言うつもりもありません。 なぜなら、学校や会社なら後輩に世話したと大きな顔をする理由があっても、不特定多数に対してayが世話したと言えることなどあるはずもないからです。 そもそも、年齢の壁を越えて物を言い合おうとしているのに、「年上を敬え」と言って壁を作るのでは本末転倒です。 それに、普段は、個人情報を晒したくないので、年齢性別不詳*2の人物として物を言っています。 だから、年下も年上もないんですよ。 強いて言えば、人生経験を踏まえて物を言うときに、その人生経験を安易に否定してくれるなってことくらいで、それ以外のことについて年齢がどうこうと言うつもりは全くありません。 このように年齢性別を明確に区別しないことは、実社会ではありえないことだけれど、ネットでは当たり前のように行なわれています。 そうなると、年齢性別を明確に区別することを前提とした礼儀作法は全く役に立ちません。
TPO
例えば、公式掲示板の住民は熱狂的な支持者が圧倒的多数を占めており、そこで発言する以上は、住民の性質に対しての配慮も必要となります。
例えば、若い女性の集団の中で卑猥な言葉を連呼して叫んでは失礼ですよね。 若い女性の側に卑猥な言葉を聞かない権利もあるわけですから。 猥談をしたいのなら、何も、若い女性の集団の中でする必要はありません。 猥談が通じる友人に向かって言えば良いのです。 だから、特定の状況に限定して猥談を禁じることは、言論の自由の侵害ではありません。 とくに、ネットでなら、聞きたくない人に無理矢理聞かせる必要はありません。 何処で叫んでも、それが有益だと判断されれば、自然と広まって行くのだから、無理に聞かせる必要などないのです。
ネットでは、生身の友人との会話手法は、通用しません。 ネットで、名誉毀損、著作権侵害、猥褻罪等に問われた事例は多数あります。 それらは、生身の手法では罪に問われないことであっても、ネットでは罪に問われます。 法律だけではなく礼儀も同様です。 生身の手法で許されることが全て、ネットでも許されるわけではありません。
価値観の違い
ネットには多様な価値観があります。 そして、その多様な価値観があるからこそ、ネットには実社会以上の価値があるのです。 だから、多様な価値観を否定しては、ネットの意味が無くなります。
もちろん、他人の価値観に無条件に従わなければならない理由はありません。 しかし、他人の価値観をないがしろにして良いわけでもありません。 互いに、価値観の違いを認め、尊重し合うことが大事です。
たとえば、こんな価値観
参加者の目的を大きく分けると、交流と情報交換があり、どちらに比重を置くかで全く価値観が変わってきます。 また、交流が目的であっても、どのような交流を望んでいるかは、人によって違います。 仲の良いお友達を望んでいる人も居れば、掲示板で会話するだけの距離を置いた関係を望む人も居ます。 堅苦しいのは嫌だと思う人も、馴れ馴れしいのは嫌だと思う人も、人によって、それぞれです。 ちなみにayは、主として情報交換を目的とし、掲示板だけの割り切った関係を求め、旧知か否かに関わらずザックバランに話し合い、なるべく堅苦しいことは言わず、何かあっても謝罪は求めないが後始末はきちんとしてもらわないと困る、という価値観を持っています。
信念の持ち方
その時々によって言うことがコロコロ変わっては信用に値しません。 また、主張に一貫性があっても、人の言うことに一切耳を傾けないのも感心できません。 では、どのような信念を持つことが良いのでしょうか。 普通に考えると次のようなところでしょう。
- 人に向かって正しいと言い張るなら、その理由が説明できないといけない
- その理由が覆されたら素直に認めないといけない
- その理由を覆せない人の言うことを真に受けてはいけない
思考停止に正論なし
自分が常識と思ってきたことを絶対に正しいと思うのは、人間の性です。 しかし、常識は人の数だけあり、自分の常識は他人の非常識です。 自分と他人の常識が一致しないとき、どちらの常識が正しいのでしょうか。 「自分の方が正しいに決まってる」「相手の方が間違ってるに決まってる」、そう思うのは当然です。 しかし、同じように、相手もそう思うのです。
これまで正しいと信じてきたのだから、確信があると思うでしょう。 しかし、自分と違う常識を信じる人間も、同様の理由で確信を持っているはずです。 二つの対立する確信のどちらが上か、比べもせずに、どうして、結論が出せると言うのでしょうか。
以下に、常識が簡単にひっくり返る事例を紹介します。
物事には、必ず、基本原則と前提事項と、それらから導かれる具体的結論があります。 基本原則は少々のことではブレない一方で、具体的結論は前提事項によって簡単にひっくり返ります。 どのような具体的結論も、前提事項次第で簡単に覆るのだから、前提事項が違うケースで具体的結論を押し付けても、それは正論ではありません。 具体的結論だけを丸暗記して、それに従って行動する程度のことはロボットにも出来ます。 変化に臨機応変に対応できないのでは、人間味に欠けます。 もし、それによって実害は受けるとすれば、実害を受けた方は、相手の機械的な対応に、さぞ、不快感を感じることでしょう。
臨機応変な対応をするためには、具体的結論を鵜呑みにすることなく、常に、基本原則と前提事項を意識する必要があります。 しかし、人間は、元々、そのような考え方が出来ない生き物です。 これは、不可能という意味ではなく、生まれつきのままでは出来ないという意味です。 生まれつきのままでは難しくても、訓練次第で出来るようになります。 社会でマナーを守って生きて行くためには、そうした訓練は必要不可欠です。
基本原則や前提事項を踏まえずに具体的結論にだけ頼るから、何も考えていないのに自分が正しいという自信だけはタップリあるのです。 だから、恥ずかしがることも無く、堂々と、裏付けの無い自信を根拠に出来るのです。 しかし、基本原則と前提事項を踏まえておけば、きちんとした裏付けを元に話をすることが出来ます。 自分が常識が本当に正しいのかどうか、基本原則や前提事項を踏まえて改めて検証するからこそ、裏付けのある話が出来るのです。
そして、その検証の過程を明らかにすることこそが、他者に理解を促すために必要な説明であり、かつ、自分の間違いを指摘してもらうために必要な説明です。 だから、他人の言い分に耳を傾ける人は、正しいと言える理由をきちんと説明します。 説明できない常識は、未検証ということになり、他人に向かって自信を持って正しいと断言できるはずがないのです。
法治国家の基本的考えに法の下の平等がありますが、これは、法の下に限らず、道徳や、利用規約や、議論のルールにも同じことが言えるはずです。 自分だけが説明を免れ、自分だけが聞く耳を持たないのでは、極めて不平等です。 不平等を既得権として主張することは、極めて、高圧的な態度です。
大事なことは、思考を停止して物事を鵜呑みにするようなことは避け、何事についても、自分の頭でしっかり考えることです。 ときに、考えることは苦痛です。 思考停止した方が、ずっと楽です。 しかし、思考停止して鵜呑みにした結論を他人に押し付けるのは、あまりに傲慢すぎます。
他者を不快にさせる行為
基本原則
人が生きる以上、絶対に他者を不快にさせないことは不可能です。 誰にも迷惑をかけずに生きる人は居ません。 人が生きる以上、ある程度までは、他人に迷惑をかけることは仕方のないことで、お互い様として我慢する必要があります。 例えば、人を褒める行為も、その人を嫌う人にとっては極めて不快な行為です。 そして、誰も不快に思いそうもない予想もしないことで他者を不快にさせることは、あり得ないことではないでしょう。 だから、絶対に他者を不快にさせてはいけないと言い切ってしまうと、誰も生きることさえ出来なくなってしまいます。
しかし、だからといって、他人に平然と迷惑をかけて良いということにもなりません。 お互い様の範囲かどうかの基準を受忍限度と言います。 回避困難*3であって、かつ、それによって生じる我慢の程度が回避できない、合理的理由の程度を下回る場合は、受忍限度内となります。 受忍限度内であれば、迷惑であってもお互いに我慢しなければなりません。 そして、他者に対しては、受忍限度を超えてまで不快にさせない一定の配慮が必要です。 これは、平たく言うと、我慢しなければならない事情と我慢できない事情、どちらが大きいかってことです。 そして、大きい方を優先させるべきだってことです。
回避困難な事情
では、その回避困難な事情とは何でしょうか。 ここに、考えられる物をピックアップしてみます。
予見性
第一に考えて、まず、予見不可能なら、他者を不快にさせるなと言うほうが無理です。 ただし、故意や重大な過失で、予見を怠った場合は責任を免れることは出来ません。
必要性
全くやる必要のない行為で、他者を不快にさせるのは論外ですね。 やる必要がないなら、初めからやらなければ済みます。 そうすれば、誰も不快な想いをしません。
正当性
不快にさせられる側から見れば、そのいわれが無いのに、不快にさせられる筋合いはありません。
受忍限度の判定
予見性については、必要性や正当性があるなら、必ずしも、満足する必要がありません。 なぜなら、一部の人を不快にさせることが分かっていても、やらなければならないこともあるでしょうから。
一方で、必要性や正当性は必須事項となります。 とくに、必要性は非常に重要です。 正当性は、お互い様という観点で考えれば、必要性ほど重要ではありません。
これらの事情を総合的に考えて、事情の程度と不快の程度から、受忍限度を考えて結論を出せば良いはずです。
事情の無い事例
多数の人が訪れる場では、自己満足だけを目的とした独り善がりの行為は慎むべきでしょう。 自分で開設したサイトでなら、独り善がりを見せつけるのも自由でしょう。 しかし、公共の場でそれをしても、見せる貴方が楽しいだけであって、誰も喜びません。 掲示板等は、閲覧者の誰かに何らかの益があると信じるに足ることを書くことによって、お互いに満足を得ようとする場所です。 誰も見たがらない、見せた人だけが喜ぶようなことを書く場所ではありません。 そのような投稿には、公共の場での必要性も正当性もありません。 そして、それにより他者を不快にすることは、投稿前に事前に予見して然るべきであって、それを怠ったことは予見できない言い訳にはなりません。 それを戒めた言葉として、「チラシの裏にでも書いてろ」があります。
分からない時は静観
深刻な問題に限って言えば、分からないことには口を出さない、あるいは、口を出すなら分かるよう最大限努力するのが基本です。 なぜなら、分からない人が口を出せば、まとまる話もまとまらないからです。
ただし、例外はあります。 理解が完全でなくても、口を出す必要がある場合があります。 例えば、事実関係を知っているのが自分だけだとか、十分でないにしろ他者よりは知っていると考えられる合理的理由がある場合です。 その場合は、その人が言わずして、一体、誰が言うべきなのでしょうか。 逆に言えば、自分の理解が不十分で、自分より知っている人間が居る時は、静観するのが基本です。
非難の仕方
他人を非難せずに済むなら、それに越したことはありません。 しかし、先の述べたような回避困難な事情があるなら、非難もやむを得ません。 むしろ、分かっていて見て見ぬ振りをするのは偽善者でしょう。 もちろん、分からないなら静観するのが鉄則です。
もし、どうしても、回避困難な事情があって非難する時は、次の事項を守るのが鉄則です。
- 論理的に公平に
- 相手に弁論機会を与える
「何となくそう思う」で他人を非難するのは適切ではありません。 そのような非難は極めて不公平です。 それでは、誰だって、「何も分かってないくせにお前の考えを押し付けるな」と言いたくなりますよね。 論理的主張こそが最も公平に非難できます。
また、自分が絶対に正しいとは限らないのだから、非難を行なう時は相手に弁論機会を与えなければ一方的で不公平となります。
臭い物に蓋
他人が何かちょっとややこしい話をしていると、割って入って、やたらと話を終わらせたがる人が居ます。 そんな人は、喧嘩でもなく冷静に掲示板と関係がある重要な問題をまじめに議論している場合であっても、無理に話を打ち切りたがります。 しかし、臭い物に蓋をして何かが解決するわけではありません。 蓋の下では、あいかわらず、臭い物の腐敗が進行しているのです。 その人が責任を持って問題を解決してくれるというなら話は別ですが、問題解決には尽力せずに話だけ強制的に終わらせようとする行為は、単なる我が侭に過ぎません。 聞きたくない話なら無視すれば良いだけのことです。
確かに、収拾がつかない話をいつまでも続けても意味がありません。 しかし、収拾がつくかどうかも判断が難しい問題です。 すぐに終わりそうな話がいつまでも堂々巡りになったり、逆に、決着が難しそうな問題がアッサリ解決したりすることは珍しくありません。 また、無理に終わらせる前に、収拾がつく方向に軌道修正する努力も必要です。 そもそも、打ち切りは、参加者から話し合いの機会を奪うことであり、やらずに済ませるに越したことは無いのです。 それでも、どうしても打ち切るのであれば、この先の展開を細かく読み、また、関係者への影響も考慮し、それらを総合的に判断して行なう必要があります。 このように、打ち切りはかなりの判断力を要することであって、何でも安易に打ち切ることは適切ではありません。
実例
以前、公式掲示板でスレッドが乱立したとき、あるスレッドを立てた人が「3日で5スレッドは立て過ぎ」と注意されたことがあります。 しかし、それなら、3日で3スレッドなら良いのでしょうか。 5日で5スレッドなら良いのでしょうか。 何日で何スレッドなら許容範囲かという基準は何処にもありません。 そもそも、スレッドは話題別に立てる物であって、誰がいくつ立てたかを論じることが本質から外れています。 話題が完全に別物で、かつ、それなりに需要が見込まれる物なら、3日で5スレッドでも何の問題も無いはずです。 逆に言えば、全くの別人が立てた物であっても、同種の内容のスレッドが乱立すれば、それは問題があるはずです。
「謝罪したからもういいだろう」と言う人も居ますが、むしろ、謝罪したからこそ問題なのです。 注意された側も、そのようなルールに納得しているはずが無いのです。 その人は新参者だから譲歩しただけであって、自分の落ち度だと納得したわけではありません。 そして、「3日で5スレッドは立て過ぎ」では、何が許されて何が許されてないのか、サッパリ見当もつかないでしょう。 自分のしたことの何が悪いのか皆目見当もつかない状態での謝罪では、しこりを残したままです。 見たくないから無理矢理終わらせるのでは、そうした心情への配慮や愛に欠けます。
また、スレッドが乱立したのはその人ひとりのせいではありません。 まるで、その人に全責任があるかのような形での決着も、その人にしこりを残すばかりか、全員が考えるべき問題をなかったことにしてしまう点でも適切でないでしょう。
こうしたことは、掲示板の運営などの全般論について、掲示板ではなかなか問題提起がしにくいことが背景にあると思われます。 何か意見を言えば、特定の個人を吊るし上げているようで、言い出しにくい雰囲気があります。 そして、誰かが言い出すと、懸念した通り吊るし上げになってたりするわけです。 そのとき、それは特定の個人の問題ではなく、掲示板全体の問題なのだと軌道修正する必要があるはずです。 それをせずして話を打ち切るのでは、結論がおかしな方へ行ってしまいます。 臭い物に蓋をすれば、余計に、問題提起がしにくい雰囲気になります。
意思疎通の限界
ネットには、意思疎通を妨げる様々な要因があります。 いや、正確に言えば、ネットに限ったことではありません。 それは、我々が、ネット以外でも、当然のように体験していることです。 ただ、意識していないから気づいていないだけに過ぎません。
考え方の違い
拒絶
「違う考え方思想」を理由に相互理解を拒絶する人は、状況にもよりますが、大抵は、自分の発言を鵜呑みにしない人を拒絶しているだけです。
相手の発言に耳を傾け、正しい所は受け入れる一方で、間違いは具体的に指摘し、また、自己の主張については理由付きできちんと説明を尽くしているのに、相手が都合の悪い話を無視したり、相手が論点をすり替えたり、相手がそうした正面から向き合った議論をせず、議論を断念せざるを得ない状況下で、そうした台詞が出てくるなら話は違います。
しかし、相手の発言には耳を傾けず、自分の発言を説明もしない、それでいて、そのような台詞を言う人は、自分が絶対に正しいと信じ、自分を疑うことを知らない人です。 自分の発言は、論理的根拠がなくても正しいと信じるため、「何となくそう思う」程度のことでも絶対視します。 一方で、他人の発言は、自分の考えと逆方向である限り、どんなに完璧な論理であっても認めません。 しかも、その自分の考えが「何となくそう思う」程度であっても、他人の論理を頭ごなしに否定します。 そして、他人の論理の何処が間違っているのかは、決して、指摘しません。 できないからです。 根拠もなく否定しているのだから、指摘できるはずがありません。
結局、「違う考え方思想」を理由に相互理解を拒絶する行為は、努力が無駄に終わった例外を除けば、「私の主張を無条件に受け入れてくれる人しか相手にしません」と宣言しているに等しい行為です。
努力不足
「違う考え方思想」の人はお互いに分かり合えないのでしょうか。 分かり合おうと努力して平行線に終わったなら、それが原因であると結論づけるのも分かります。 しかし、分かり合う努力もしないで、「違う考え方思想」だから分かり合えないと結論づけるのは決め付けですね。 努力もせずに分かり合えないなら、それは努力が足りないことが原因ではないでしょうか。
「違う考え方思想」を尊重するということは、お互いに不干渉と同義ではないはずです。 確かに、場合によっては不干渉という選択も、尊重するための手段として必要になることはあるでしょう。 しかし、尊重と不干渉は同義ではないはずです。 もし、同義であるなら、全ての投稿は「違う考え方思想」への干渉であり、「違う考え方思想」を尊重していないことになりますね。
「違う考え方思想」を尊重することは、可能な限り理解しようと努力をすることから始まるのではないでしょうか。 そして、どうしても理解できないなら理解できないことを理解する、自分には理解できない真理があるのかも知れないと認めることこそが、尊重するうえで大事なことであるはずです。 それは、「理解できないこと=間違い」とは思わないことであって、理解の努力を放棄することとは違います。 可能な限り理解に努めることは尊重のための大原則です。 不可能ではないのに理解の努力を放棄することは、尊重する意思を放棄することでもあります。
字数の限界
説得力のある文章の書き方に関する本の宣伝には、原稿用紙1枚=400字にまとめろという文句がありました。 それ以上に長くなると、ちゃんと読んでもらえなくなって、説得力を失うというのです。 しかし、掲示板等の伝達手段では、400字でも多いくらいです。 たまに読むくらいならともかく、頻繁に400字クラスの投稿をしたら、誰だって読む気をなくすでしょう。 物理的に字数制限が課せられている場合もあります。
一方で、ある種の物事を背景から丁寧に説明しようとすると、400字では足りないことも少なくありません。 しかし、読んでもらえないのでは長文を書いても意味がありません。 だから、文章を書く時は丁寧さと簡潔さのバランスを考える必要があります。
これは、言い換えると、読む側にも努力が必要なことを示しています。 文章には、たいてい、書き手が断腸の思いで削除した記述があるのです。 書かないと絶対に伝わらないことは削除できません。 となると、行間から読み取ることが可能であろうこと等、読み手次第で伝わる可能性の高い物事から優先的に削除することになるわけです。 書き手は、読み手に、そうした期待をしているわけです。 それを裏切っては、物事を正しく伝えることは不可能です。
時間の限界
ネットではリアルタイムで答えが返って来ないことが多いですね。 そのため、何か誤解が生じてしまったとき、待つ時間が疑心暗鬼を増幅し、それが事態を複雑にすることがあります。
公開された場で生じる問題
公開された場で物を言い合う場合、二者間の会話とは違い、第三者が居ます。
回数の限界
リアルタイムで会話が出来ないということは、会話の往復回数も自然と少なくなるということです。 ということは、話をまとめるためには、日常生活で行なっている会話方法よりも、ずっと、効率的な会話を心がける必要が生じます。
常識の不一致
人は、通常、話し相手と常識が一致していることを前提に話します。 それは、常識から話し初めてはキリが無いからです。 本題は三分で終わることなのに、その前提となる常識を話すだけで丸一日掛けたいとは誰も思わないでしょう。 しかし、それは、話し相手と常識が一致していることが大前提となります。
常識が一致するのは当たり前だと大多数の人は思っているでしょう。 日常生活では、余程の変わり者でもない限り、会う人のほとんどと常識が一致するからです。 しかし、それは、仕事の仕方や生活習慣等に共通部分があったり、気の合う人とだけグループを組んでいたり等、一致するだけの要因があるから一致しているだけなのです。 しかし、ネットでは、多様な価値観の人を相手にしているから、そうした日常生活の常識は当てはまりません。
これは、先にも述べた通り、書き手も読み手も考えなければならない問題です。 これを忘れていると、双方が、お互いに「アイツは頭が固い」と思うことになります。
感想より論理
テレパシーで伝えるつもりなら、ともかく、何も言わずに他者に自分の考えを伝えることは不可能です。 たとえ言葉にしても、説明の無い決め付けでは、貴方がそのような主張をしているということしか伝わりません。 先にも述べた通り、自分の常識は他人の非常識なのだから、結論だけ述べられていても、他者に同じ思考が出来るはずも無く、その主張が正しいのかどうかまでは分かりません。 常識が一致しない人と話す時は、自分が常識だと思っていることも、他人に説明する必要があるのです。
高圧的態度とは?
さて、高圧的とは何でしょうか。 それは、はっきり言ってしまえば、「俺が正しい。 お前の意見など聞く余地もない。 黙って従え」と主張することですね。 つまり、反論を受け付けない決め付け的主張こそが高圧的なのであって、反論を封じない論理的主張は全くの無圧なのです。 主張は根拠を示さないのに反論に根拠を要求するのは卑怯です。 相手に反論の余地を与えないのでは、言うまでもなく高圧的です。
自分は絶対に正しいと思ってる人は、決め付け的主張を多用します。 それは、「絶対的に正しいことを一々説明する必要などありはしない」という思い込みに基づいています。 また、「自分が間違っているとは思いたくないから、反論の余地を与えたくない」とする願望の現れでもあります。 しかし、当人にその自覚が無いことが多く、その思い込みと願望が矛盾することにまでは気づいていません。
自分が間違っている可能性を認める人は、論理的主張を多用します。 自分が間違っている可能性を認める人も、自分が正しいと思いたい点では同じ人間です。 しかし、間違いを潔く認める意思を固めたのだから、間違いを正す余地から逃げたりはしません。 そして、正しくありたい欲求を満たすには、間違いを正す機会から逃げていては駄目なのだということも知っています。 だから、他者が反論できるように論理的主張をするのです。
反論の仕方
論理的主張に対して主観的結論を言い返す人を良く見かけますが、それは全く反論になっていません。 何故なら、元の主張の論理が正しいならば、それを覆せない限り、結論は自ずと決まってしまうからです。 だから、そうした反発は、単にその人が論理的結論を受け入れたくないという意思表示をしているだけに過ぎません。 それに対して、元の主張の結論は、誰かの意思によって決まっている物ではなく、論理の帰結として自然に決まっている物です。 結論にだけ反発するのでは、正に、「俺が正しい。 お前の意見など聞く余地もない。 黙って従え」と主張する高圧的態度です。
反論封じ
よく、「以後、反論しない」と宣言して意見を言う人が居ます。 これは、つまり、相手の反論には聞く耳を持たないと宣言しているのです。 また、自分の意見に間違いがあっても、その指摘も受け付けないわけだから、自分の意見は絶対に正しいと言ってるのと同じです。 平たく言えば、「俺様のありがたい言葉を聞け、おまえの言うことなど糞だ」と言ってるのと同じです。 これでは、大変高圧的で失礼ですね。
自分の意見を言って幕引きするのは、反論を封じ込める行為です。 つまり、自己主張を相手に押し付けようとしているわけです。 そして、もし、反論してきた場合は、しつこい奴とあしらえます。 つまり、相手を罠に嵌めたことにもなるわけです。
話を打ち切りたいなら、何も反論せずに打ち切るのが最低限度の礼儀ですね。
「俺は、自分の主張が正しいとは断言しない」
この発言は良く聞きます。 おそらく、言ってる本人は奥ゆかしいと思っているのでしょう。 ところが、どっこい、これほど無責任で身勝手で高圧的な言葉はありません。
web上で物を言う理由は、他人に影響力を行使する意図があるからです。 他人に影響力を行使する意図がないなら、チラ裏であり、web上で物を言う意味が全くありません。 自分でも正しいと自信を持てないことで、他人に影響力を行使しようとするなら、これほど無責任で身勝手で高圧的な態度はありません。
この世の中には100%正しい意見はありません。 しかし、「正しい」という言葉は使います。 通常、「正しい」と言う場合は、その時点で正しいだけに過ぎず、100%正しいことを意味するわけではありません。 そして、その時点で正しいかどうかは次のような基準で判断します。
- 肯定理由があって、それを覆すだけの否定理由が見当たらなければ正しい
- 否定理由があって、それを覆すだけの肯定理由が見当たらなければ間違い
- それ以外については断定的に言えない
公共の場で物を言う以上、事前に間違いがないか検証するのは当り前のことです。 他人に影響力を行使する以上、なるべく正しい意見を言うように努めるのは当然です。 そして、ちゃんと検証したなら、その意見には自分で見つけられる間違いは含まれてないはずです。 つまり、公共の場で言う意見は「正しい」、つまり、発言者本人にとって発言時点で正しい意見でなければなりません。 ただし、判断を見送り、単なる事実関係としての判断材料を提示するだけなら、事実の検証だけで構いません。 その場合は、自分の判断が正しいかどうかまで検証する必要はないでしょう。 しかし、何らかの結論を主張するなら、その判断が正しいかどうか事前に可能な限り検証するのが、責任ある発言態度でしょう。 もちろん、他人に間違いを指摘されたときも、その言葉に真摯に耳を傾けることが大事です。
「自分の主張が正しいとは断言しない」とは、そうした検証を怠ってると言ってるだけであって、単に責任放棄しているに過ぎません。 逆に、責任を果たしているのならば、「正しい」と断言できなければならないのです。 もちろん、その時点で正しいことを前提として物を言うことは、後で前提が覆ることまでを否定するものではありません。 ただ、その時点で正しいと信じる理由があるから他人に意見できるのであって、自問自答して正しいと自信を持って言えないことを他人に意見するのは、極めて無責任で身勝手で高圧的な態度です。
まとめると、公共の場で自己判断を示す場合、「断定」が必須であるということです。 ただし、「決め付け」は行なってはいけません。 「断定」と「決め付け」の違いの詳細は、web論理的主張の勧めを参照してください。
「お前は、自分が絶対に正しいと思ってるのか?」
議論でまず重要なことは、それぞれの発言の真偽であって、その発言者の人格ではありません。 相手の主張が間違ってるなら、具体的にその間違いを指摘すれば良いはずです。 何故なら、それが妥当な指摘であれば、それだけで相手の主張を覆せるのだから。 逆に言えば、相手の間違いを具体的に指摘できなければ、どんなに発言者の人格をどうこう言っても、その発言を覆すことが出来ません。 相手の発言を覆そうとするなら、何故、必要なことをせずに意味の無いことをするのでしょうか。 それは、相手の間違いを具体的に指摘できないからに他なりません。 つまり、相手の主張の間違いを見つけられないのに、反発しているだけに過ぎません。
確かに、間違ったことを言ってる人が「自分は正しい」と思っていると、議論の正常な進行に支障が生じるでしょう。 しかし、正しいことを言ってる人が「自分は正しい」と思っていても、進行には何ら支障が生じません。 いずれにせよ、相手の主張に間違いがなければ、議論の進行上の問題も発生しません。 つまり、まずは、相手の主張の間違いを指摘することこそが反論の第一歩であるはずで、それが出来なければ、発言者の人格をどうこう言っても全く無意味です。
ようするに、こうした物言いは、論点のすり替えに過ぎません。 相手の主張に反発したいけど、その間違いを見つけられないから、相手の態度の問題に論点をすり替えているだけです。 しかし、先に述べたように、相手の主張の間違いを指摘できない以上、態度の問題も発生しないのです。
長所を生かす
リアルタイムでの会話できない短所は、見方を変えれば、リアルタイムで会話しなくても良いという長所でもあります。 面と向かって話をしているときに長考に入るのは失礼です。 しかし、リアルタイムでないなら、長考に入ることができます。 相手からいつ返事が返ってくるか分からないということは、逆に、いつ返事をしても良いということです。 即座に返事を返すことが要求されているわけではないのです。 だから、無理に即答する必要はありません。 じっくりと考えてから投稿すれば良いのです。
深い考えなしに物を言えば、主張がまとまってなかったり、余計なことを言ったりするものです。 しかし、じっくりと考えれば、そうした問題を最小限に抑えることができます。 じっくり考えれば、主張を良くまとめ、必要不可欠なことはしっかり盛り込み、余計なことは言わないことができます。 考えずに物を言ってトラブルになるなら、しっかり考えて物を言えば良いのです。
収拾がつかない時は様子見するのも、一つの手です。 当事者だから様子見は失礼だとか考える必要はありません。 むしろ、あせって収拾がつかない事態を引き起こす方が失礼です。 黙って見ていれば、誰かが、良いことを言ってくれることもあります。 自己の弁護をして説得力が無くても、他人が言えば説得力があったりするものです。 また、自分にない視点で参考になることも言ってくれるかも知れません。 他人を信じることも大事です。
余計なことは言わない
我々は、日常的に、必要なことだけを言う癖がついていません。 たいていの人は、必要なことの他に、余計なことをくっつけて物を言う習慣を持っています。 所謂、一言多いってやつです。
このことは、ネットで、とくに、もめ事になった時は注意が必要です。 自己の主張の趣旨だけを述べていれば受け入れられる主張も、その趣旨に必要の無い他人の神経を逆撫でする表現を入れると途端に受け入れられなくなります。 話し言葉ではその場限りで終わることなのに、文章がいつまでも残ると遺恨もいつまでも残ることになります。 腹の立つ相手に一言言ってやれば、そのときは、スッとするかも知れません。 しかし、それが原因でもめ事が長期化すれば、それ以上に気持ちの悪い思いをすることになります。 それよりは、余計なことさえ言わなければ、相手も譲歩するかも知れません。 そうすれば、余計なことを言うより、ずっと、自分の気は収まるでしょう。
以前にayが書いた文章を例に挙げましょう。 たとえば、「○○には××」「○○では××」との言い方には、その裏に、「○○以外は××じゃない」という意思表示が潜んでいることがあります。 これを「○○に××」「○○で××」と言えば、それ以外のことに言及する意志のない表現になります。 それなのに、「には」「では」と書くのは、それ以外のことに言及したかったからです。 一言言ってやりたいという気持ちがその文章を書かせているのです。 しかし、それを言う必要は無く、無闇に他人の感情逆なでする表現に過ぎなかったのです。 ayは文章を読み返して、投稿ボタンを押す前に「は」を消しました。 このケースでは、たった一文字のことです。 しかし、この問題は一文字にこだわるかどうかではありません。 これは、文字数の問題ではなく、その意図と意味の問題です。 意図と意味が大きく変わるならたった一文字でも愚かには出来ないし、逆に、意図と意味が大差ないなら何文字あってもこだわる必要はありません。 このケースでは、確かに、余計なことを言ってやろうとする意図があったのです。 だから、余計な一文字を消したのです。
簡潔に
簡潔に書くことは誤解を与えない文章を書くうえで重要なことです。 長い文章を書いて、本人は説得力があるつもりでも、実は、同じ表現が何度も出てくるなど、無駄の多い文章であることもあります。
脱線している事例もあります。 よく見ると、連続する二行が表現は違うが同じ内容ということもあります。 その場合は、一行削ることも出来るはずです。 人には、説得力を増そうとして、余計な修飾を付け加える癖があり、書かれた文章には無駄が多いものです。
十分に
人は自分に分かる文章しか書かないものです。 そして、自分に分かる文章が他人にも分かるとは限りません。 人は自分にとって常識だと思うことを説明から省略します。 しかし、自分の常識は他人の非常識であり、ネットでは特にその傾向が強くなります。 はっきり言ってしまえば、自分が書いた文章も、それ全体が自分にとっては全て常識です。 自分に説明するだけなら言葉は一言も必要ありません。 他人に説明するということは、自分と他人の常識のギャップを埋めることです。 常に自分の常識を疑い、あれもこれも他人にとっては常識ではないかも知れないと思えば、自然と、それらも説明に付け加えなければいけないと思うでしょう。 自分と他人の常識のギャップを知ることは非常に難しいことです。 そして、それを相互理解することこそが話し合いの目的です。
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