Remember11考察 腐乱死体
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エピローグでは全員生還
ココロ編のエピローグを見れば分かるように、救出された後も死亡記事が実在しています。記事の内容も変わっていません。
『・・・7月20日、天気、晴れ』
『ここに新聞記事がある』
『あの避難小屋にあった記事と同じものだ』
死亡記事が存在する理由としては、次のような理由が考えられます。
- 手作りの偽新聞を作った
- 新聞社に偽の記事を書かせた
- 別人の死体を彼らであるかのように見せ掛けた
バッドエンドによっては記事の内容が変わる描写があるようです。 バッドエンドに合わせた偽新聞を作る動機が存在しません。 よって、バッドエンドの記述を重視するなら、偽新聞とは考え難い。 また、細かい説明は省略するものの、冬川こころの言い方等を考慮すると、偽新聞とするのは少々違和感が残ります。 「週刊新時評」にも腐乱死体発見の記事があることや、サトル編のエピローグの次の台詞(選択肢によっては見れない)も、偽新聞では説明困難です。
悟「じゃあ、内海さんのことはどうなる?」
悟「彼女は、過去の黄泉木さんが雪崩に呑み込まれて死んだことを知っていた」
常識的に考えて、関係者が多すぎて全員の口を封じるのは困難であるため、新聞社に偽の記事を書かせるのは無理があると考えられます。 一方で、腐乱死体を用意するだけなら、実行犯の口を塞げば秘密は漏れないため、十分に実現可能であると考えられます。 また、黄泉木聖司の身元確認に妻の内海カーリーが立ち会わないとは考え難い。 よって、3つめが最も高そうな可能性です。
死体の発生時期
まず、前置きとして、腐乱死体の発生時期について言及しておきます。というのも、雪崩と同時に埋めなければならないかのような誤解をしている人がいたからです。 実は、これ、かなり時間的余裕があります。 極端なことを言えば、雪解け前までに用意すれば事足ります。 何故なら、死体が腐乱しているからです。以下、青森県の八甲田スキー場の説明。
11月下旬から5月中旬まで滑走可能であり、所によっては8月のサマースキーをも楽しむことができます。
このように、東北地方の高山では春になっても雪が残っています。 朱倉岳の現場の雪が夏前くらいまで残っているなら、かなりギリギリまで時間の余裕があることになります。
新聞記事によると、雪崩に巻き込まれて雪の中に埋もれていた死体が、雪解けにより露出して腐乱したと推測されています。 さて、死体の温度を操作することは、死亡推定時刻を誤摩化すトリックとしては初歩的です。 そうでなくても、露出時期や露出後の条件の僅かな違いで腐乱の進み具合に大きな差が出る一方で、雪中に埋まっている期間の大小は化学変化に大きな差をもたらさないことは容易に理解できる*1はずです。 このような状態では、死亡推定日時を正確に割り出すことは殆ど不可能でしょう。
腐乱死体が発見されたのは、2011年7月3日(「週刊新時評」7月21日号参照)でした。 現実の話ですが、大津市の寺院で見つかった腐乱死体は死後約1か月で、 身元特定に繋がる遺留品はなく、DNA鑑定で身元を特定したそうです。 これは、死後約1か月でも身元の特定が困難となるほど腐敗することを示していると言えそうです。 よって、Remember11の事例では、遅くとも、2011年6月3日までに死体を用意すれば事足りることになります。
ということは、死体を用意するのに4ヶ月半の時間的余裕があるということです。 また、事故後の捜索で死体が見つかっていないという事実も、必ずしも、捜索前に死体を用意する必要がないことを示しています。 いや、死亡記事を再現する目的なら、捜索前には死体を埋めない方が良いと言えます。 なぜなら、捜索時に死体が見つかっては困るからです。 計画の失敗に繋がりかねない不確定要素は、極力、取り除いた方が良いに決まってます。
ココロ編とサトル編
さて、では、常識的な検証をします。ココロ編のエピローグから考えて、腐乱死体のうちの一体は、冬川こころでないことは確かです。
ココロ編でバッドエンドとなってセーブすると、サトル編も、それに対応したバッドエンドになります。 逆に、サトル編でバッドエンドとなってセーブすると、ココロ編も、それに対応したバッドエンドになります。 以上の様に、ココロ編とサトル編のエンディングは一対一で対応しており、エピローグ同士にも同じ関係が成り立っています。 対応しているのはエンディングだけでなく、ゲーム中の様々な描写も一方の選択が他方に反映されるようになっており、これがココロ編とサトル編の事実関係の一致を示唆していることは明らかでしょう。 よって、ココロ編エピローグとサトル編エピローグは、事実関係が一致していると考えられます。
サトル編エピローグでは、優希堂悟、冬川こころ、黛鈴、黄泉木聖司、犬伏景子、内海カーリー、楠田ゆには雪崩に巻き込まれずに無事に生還しました。 よって、腐乱死体はそれ以外の誰かと考えられます。
優希堂悟(主人公)の推理
5日め後半、優希堂悟(主人公)は、雪崩に巻き込まれたのは、黄泉木聖司、内海カーリー、犬伏景子の3人だとする推理を披露している。 さて、これは、終盤における推理なのだから、正しい推理なのだろうか。いや、全くそうとは言い切れない。 まず、これは、新規の情報ではない。 というのも、「現在」、朱倉岳に居るメンバーはプレイヤーにも明かされており、それを考えれば、誰でも思いつく内容だからだ。 そして、プレイヤーは、この推理が外れる光景=全員生存を目の当たりにする。 だから、これは、明らかな誤推理である。 そして、この優希堂悟(主人公)の誤推理は、優希堂悟(主人公)を3人の救出に向かわせるためのものであり、間違った推理をさせるだけの合理的理由がある。 さらに、前述したとおり、この誤推理を訂正する情報が、全員生存の事実によってもたらされる。 これだけの条件が揃っているのだから、終盤とは言え、誤推理である可能性は極めて高い。
死体の正体
さて、本題です。腐乱死体の正体は誰でしょうか。 真の答えは「誰でも良い」です。 なぜなら、それを明らかにする必要がないからです。 墜落現場の遺体だって、何処の誰か明らかにされていません。 そのことに誰が不満を持つでしょうか。 所詮は、計画の踏み台にされたに過ぎず、ただの通行人クラスの超脇役で終わっています。 チョイ役が誰か一々気にしていては物語を楽しむどころではありません。 たとえば、金田一少年の事件簿などでも、主要人物の死体だと思っていたら、実は、犯人に利用されただけの全く無関係な別人だった・・・ということがあります。 その展開に誰が文句を言いますか。ということで、結局、重要なことは腐乱死体の正体ではなく、腐乱死体が存在する理由です。
存在理由
12歳の楠田ゆには、冬川こころ達が生還したであろうことを前提に歴史を維持しようとしています。 そして、偽装工作の動機付けを可能にするためには、スフィアで、内海カーリーから冬川こころ達3人と思われる遺体が発見されていることを聞いていなければなりません。 そうだとすると、生還した人物と思しき遺体が発見されるという不思議なことになります。 2011年7月4日読物新聞の記事によると・・・
今年1月、青森県朱倉岳にHAL18便が墜落し27人が死亡した事故に関連して、青森県警は新たに男女3人の遺体を収容したことを発表した。
収容された遺体は、すでに死後6ヶ月が経過しているために腐乱が激しく、まだ身元をはっきりと断定できていない、としながらも、HAL18便に乗っていた乗員・乗客のうち、いまだ発見されていなかった残る3人にほぼ間違いないとしている。
収容された3つの遺体の氏名は−
『黄泉木聖司さん(35)』
『黛鈴さん(23)』
『冬川こころさん(20)』
「まだ身元をはっきりと断定できていない」のは、「腐乱が激し」いために、遺体その物の確認が難しいからです。 しかし、「残る3人にほぼ間違いない」と言えるからには、遺留品等の間接的証拠での確認を行なっていることは間違いありません。 よって、偶然、似たような時期に似たような場所で別人が遭難したとは考えられません。
となると、誰かが偽装工作をしなければ辻褄が合わないことは明らかです。 そして、その偽装工作が必要だと知りうる人物は、雪崩を体験した楠田ゆに以外に居ません。 歴史を維持することが重要と考えているなら、当然、偽装工作を実行に移すでしょう。 「工エェ(´Д`)ェエ工、楠田ゆにが人殺しですか?」と思った貴方へ。 何も楠田ゆにが人を殺す必要はないのです。 ライプリヒなら、非人道的な人体実験を日常的に行なっているでしょうから、その人体実験で死んだ遺体の中から、都合の良い遺体を選べば良いだけです。 通常、事故であることが明らかで事件性が認められない場合はDNA鑑定まではしないので、用意する死体は体格の似た別人で構いません。 あとは、腐乱する前に見つからないように気をつければ良いだけです*2。
参考
参考までに取り上げると、某所で挙げられた腐乱死体=黄泉木聖司+内海カーリー+犬伏景子とする説は論外です。 これは、次のような、根拠なき前提に基づいた主張でした。
- 死体の発生時期を雪崩発生と同時かそれより前に限定 ← 根拠なし
- 偽装工作可能な人間を既知の登場人物に限定 ← 根拠なし
- 死体の正体を既知の登場人物に限定 ← 根拠なし
冬川こころが生き残ったことと新聞との辻褄を合わせるとしても、腐乱死体を黄泉木聖司+内海カーリー+犬伏景子の三人に限定しなければならない理由もありません。
そもそも、こうした説を主張するには、サトル編の一部の描写(=内海カーリーと犬伏景子が朱倉岳に行ったこと)だけが選択的にココロ編に反映されることが前提となります。 しかし、それだけがココロ編に反映されて、その後、無事に青鷺島に戻ることが反映されないのは変です。 一方だけが反映されてもう一方が反映されないとする仮定は、作品中に示されていない仮定であり、そのような仮定が正しいとするなら、そう言い切るだけの合理的理由が必要です。 確固たる証拠のある説ならば、それを基準にして他の部分の描写との解釈の辻褄を合わせるのは普通です。 しかし、ただ支持したいという動機だけで前提を変えるのでは、何でもあり過ぎて、あまりに荒唐無稽です。
これは、考察の基本原則に示したとおり、根拠もなく可能性を安易に絞り込むことで、真っ先に正解を捨てさった事例そのものです。 作品にないMy設定に固執したが故、作品の描写と整合する解(ココロ編の出来事=サトル編の出来事となる解)を真っ先に捨てているために、作品の描写と辻褄が合わなくなっているのです。 そして、その辻褄を修復するために、作品に示されていない荒唐無稽なMy創作理論を持ち出さなければならなくなったわけです。 正しく、My設定やMy創作理論が先にありきで作品の存在を軽視している事例そのものであり、作品に基づいた考察とは正反対の事例でしょう。
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References:[Remember11考察(旧)] [Remember11考察]