論理的間違いの実例part1
自ら認めた間違い
・電子が、「粒子」であるとすると……
→スリットはどちらか一方しか通らないのだから、
2つのスリットで生じる干渉縞という現象の説明がまったくつかない。
結論から言えば、「説明がまったくつかない」(=隠れた変数理論の否定)というのは間違いです。なぜなら、この後の記述で、次のように描かれているからです。
たとえば、粒子が観測される場所が、波の形になっているのだから、
下図のように「波が出てから、粒子が飛ぶ」と考えるのはどうだろうか?
1)ミクロの粒子(電子)が、移動するまえに「波」を出す。
2)粒子は、その「波」に乗って、移動する。
ここで、この「波」は、「パイロットのように粒子を導く波」ということから、
「パイロット波」とか「ガイドウェーブ」と名づけられ、
このツジツマ合わせの説明を「パイロット解釈」と呼ぶ。
実は、こんなふうに考えても、2重スリット実験は説明できてしまうのだ。
「説明がまったくつかない」はずなのに、説明がついてますよね。「説明がまったくつかない」と決めつけていたのに、説明のつく答えがあったのです。
「パイロット解釈」(隠れた変数理論の一種)で説明がつくことからも分かるように、二重スリット実験では隠れた変数理論の真偽を論じることはできません。 単に結論が出せないだけでなく、二重スリット実験には隠れた変数理論の真偽を論じるための手掛かりが一切ないのです。 隠れた変数理論の真偽を論じるには全く別の実験が必要であり、二重スリット実験は全く関係がないのです。
尚、隠れた変数理論が科学的に正しいかどうか*1は、ここで論じていることと直接関係がありません。 ここで論じていることは、引用部が論理的に正しいかどうかであり、二重スリット実験に隠れた変数理論の真偽を論じる根拠があるかどうかです。 根拠にならないことを根拠と言い張ることは論理的に間違っています。 そして、このケースでは、言った本人が根拠にならないと自覚しているのだから、単なる誤りではなく、読者を欺く詭弁を弄していることになります。 もし、仮に、結論が正しいとしても、その説明の過程として詭弁を用いることは正当な行為ではなく、社会的にも百害あって一利なしです。 そんな詭弁を弄するくらいなら正直に「何故かは分からないが正しい」と言った方がましです。
このサイトの記述が悪質なのは、詭弁で読者を欺いておいて、その後、結果を覆しながら、それが論理展開の間違いであることを一切認めていないことです。 論理展開の間違いを訂正せず、予想外の新真実の発覚による不可抗力であったかの偽装していることは、看過できません。 これを書いた人は、自身がどちらの結論を支持しようとも、その結論に見合うように詭弁を弄するのでしょう。
原因
では、何故、間違えたのでしょうか?単に科学的知識の不足でしょうか?いえいえ、違います。 結論の間違いの原因は、論理的思考過程に致命的間違いがあるからです。 前提事項をキチンと意識していないが故に、原因と結果の因果関係を取り違えてしまったことが、間違いの最大の原因です。 実は、因果関係を取り違えさえしなければ、「パイロット解釈」を持ち出さなくても、説明は十分に可能だったのです。
論理的な間違いは「2スリット実験(3)」哲学的な何か、あと科学とかの文章の中にあります。 さて、何処が間違っているか分かりますか?
因果関係の取り違え
重大事項の無視
最大の間違いは、以下にあります。
電子1個を飛ばすと、電子は「スクリーン上のどこか」に到達し、
その場所に「点」を映し出すわけだが、
「この『点』が、スクリーンのどの場所に映し出されるか?」については、
実は、確実な予測ができない。
不思議なことに、可能な限り同じ条件で、電子1個を同じように飛ばしてみても、
スクリーン上の「点」は、あっちに映ることもあれば、こっちに映ることもあったりと、
気まぐれな結果を残す。
(条件が同じなら、いつも同じ場所に電子が飛んできそうなものだが)
さて。問題は、ここからだ。
もっと、ハッキリと何が間違いか言及すると「問題は、ここからだ」が間違っているのです。 見るべき「問題」は、その前に存在するのです。 そして、本人も、それに気付いているのです。 「不思議なことに〜気まぐれな結果を残す」と「条件が同じなら〜そうなものだが」と疑問を指摘しておきながら、そうなる原因を追求せずに、どうして、さらっと流してしまうのでしょうか。 その現象の原因こそが干渉縞が生じる主要原因なのに、全く追求することもなく、アッサリと無視してしまっています。 そのせいで、本当の原因に気付き損なったのです。
「不思議なことに〜気まぐれな結果を残す」のは、粒子が曲進する証拠です。 ちなみに、粒子の曲進性の原因は波としての性質によるものです。 もし、粒子が直進すると仮定すると、その粒子が2つのスリットをどう通ろうが、絶対に干渉縞は生じません。 干渉縞が発生するためには粒子が曲進することが大前提であり、その前提が満たされるならば、実験結果も問題なく説明できます。 粒子の振る舞いだけを見るなら、スリットの一方だけを通るのか、両方を同時に通るのかなんてことは、干渉縞の発生原因とは何の関係もないのです。
スリットを通った波は回折によって広がります。 波が広がるということは、確率解釈で、粒子の取れる軌道の可能性が広がることであり、粒子が直進しない確率が上がることです。 その結果として、「不思議なことに〜気まぐれな結果を残す」のです。 そして、波が干渉すれば、干渉縞模様に比例した確率で粒子の軌道が選択されることになり、スクリーン上には干渉縞が生じます。 つまり、波としての性質を考慮すれば、粒子が同時に1つしかスリットを通らなくても、干渉縞が生じることは説明できます。 粒子の軌道が確率解釈に従うことは摩訶不思議ではあるけれど、干渉縞が生じるのに粒子が同時に2つのスリットを通る必要は全くありません。
前提事項のブレ
・電子が、「粒子」であるとすると……
→スリットはどちらか一方しか通らないのだから、
2つのスリットで生じる干渉縞という現象の説明がまったくつかない。
電子が波の性質を持たないことが前提事項ならば、「どちらか一方しか通らない」かどうかとは無関係に「干渉縞という現象の説明がまったくつかない」のです。 つまり、「干渉縞という現象の説明がまったくつかない」のは、波の性質を無視するからであって、「どちらか一方しか通らない」せいではないのです。
波としての性質がなく、粒子としての性質だけであれば、絶対に干渉は起きません。 何故なら、干渉が生じるための前提事項は次の通りだからです。
- 二つの何かが交差すること
- それらがどちらも波であること
- 同波長で位相関係が一定であること
波であれば、スリットを通ったときに回折現象が生じます。 そのせいで、両スリットを通った波は広がって交差することができます。 そして、双方が波であり、同波長で位相関係が一定であるために、干渉が生じます。
しかし、波としての性質を無視すれば、二つの軌道が交差することはありません。 また、波でなければ交差しても干渉は起きません。 よって、波ではない粒子という前提事項では、どうやっても干渉を引き起こすことは不可能です。
よって、波ではない粒子を前提にするならば、両方を同時に通ったとしても、絶対に干渉は生じません。 言い替えると、両方同時に通れば干渉が起きると言うならば、それは波であることを前提にしているはずです。 つまり、「どちらか一方しか通らない」云々は、一方か両方かで前提事項を変えてしまっている(一方しか通らない時は波ではないとし、両方通る時は波として扱う)ということです。 そして、両者の結果が違うのは、前提事項の違いのせいであって、「どちらか一方しか通らない」云々は全く関係ない*2のです。 勝手に前提事項を設けておきながら、自分の都合で前提を覆すように、前提事項をコロコロ変えてしまうから、因果関係を取り違えてしまうのです。
「観測」の定義と確定時期
コペンハーゲン解釈では、観測していないとき(みてないとき)は、
「場所Aにいるかもしれない電子」 と 「場所Bにいるかもしれない電子」が、
ホントウに同時に存在している、と考えている。
ここで、「観測」の定義を人間が見ることとしていますが、その根拠は一体どこにあるのでしょうか。 確かに、人間が見た時には既に「観測」が終了している必要があります。 しかし、人間が見た時が「観測」の瞬間であるとする根拠は何処にもありません。
シュレディンガーの猫の思考実験を引き合いに出しているので、こちらも、それで説明しましょう。
というのは、
「観測するということは、観測する対象に影響を与えるということ」 だからだ。
つまり、「電子を観測する」ということは、「電子に、光などの他の物質をぶつけたり」して、
その位置を調べるということである。
したがって、当然、電子の軌道は、「観測の影響」によって大きく変えられてしまう。
そうなると、この2重スリットの実験はぶち壊しになり、干渉縞は消えてしまうのだ。
(観測によって、電子を弾き飛ばされてしまったのだから。)
電子に何も影響を与えずに、観測できる方法があれば良いのだが、
それは原理的に不可能である。
「電子」と「センサ」の間で起こることも、究極的にいえば、
「電子(ミクロの物質)」と「センサを構成するミクロの物質」のあいだで、
「力の相互作用」が起きただけのことである。
(中略)
それなのに、「干渉縞が発生する」ということから導き出せる結論は、
「ミクロの物質」のあいだに、
「力の相互作用」がおきても、
ミクロの物質の位置は決定されません!
ということになるのだ。
以上のことから、シュレディンガーの猫の思考実験について言えることは、次のとおりです。
- 蓋を開けた時に猫の生死が確定していることは常識的に疑う余地がない
- どのような「力の相互作用」も生死を確定させる要因になり得ない
- この思考実験には生死が確定する過程を論じる根拠が含まれていない
前の二項目は読んで字のとおりだから勘違いする人は少ないでしょう。 問題は最後の項目です。 次を良く見てください。
- 生死を確定させる要因が見当たらないことを理由にすると・・・
- 見ていない時に確定することはあり得ない
- 見た瞬間に確定することもあり得ない
- 未知の要因の可能性を考えると・・・
- 見た瞬間に確定してもおかしくない
- 見ていない時に確定してもおかしくない
どのように考えても、見ていない時と見た瞬間は対等です。 どちらかで確定し得るなら他方でも確定し得るし、どちらかで有り得ないなら他方でも有り得ません。 つまり、見た瞬間だけが特別とする理由は何処にも無いのです。 むしろ、時間の長さを考えれば、見た瞬間に確定する確率の方が圧倒的に小さいと言えます。
蓋を開けるまでは「観測」していないという前提です。 「観測」していない以上、観測結果は無いわけです。 つまり、観測結果がないのだから、観測結果と比較することはできません。 だから、蓋を開ける前と後の状態は比較できないのです。 また、見ることを「観測」と定義した場合も、見る前と後を比較することは不可能です。 よって、見ていない時と見た瞬間の比較は全く為されていません。 それなのに、何故、見た瞬間に生死が確定すると断言できるのでしょうか。 見る前の状態を「観測」していない以上、見る前の時点で不確定とは断言できないはずです。
このように、何ら証拠に基づかない唐突な仮定を持ち出すから、次のような頓珍漢な結論に達するのです。
「でも、それなのに、
『人間』が観測したときにだけ、猫の状態は決まっているんだ。
いいか!『人間』が観測したときだけだ!」
「ま、まさか、ノイマン!」
「そう。人間の『ココロ』が、
『多重に存在していた猫の状態』を決めたんだ!」
生死が確定する瞬間が分からないと素直に認め、判明している事実だけを元に推測すれば、人間の意識を特別視する理由は何処にもありません。 つまり、いつの間にか猫の生死が確定してしまう要因となる「未知のナニカ」は、本当に全くの未知だということです。
言い替えると、「ノイマン博士」にとっての「説明不可能なこと」(見た瞬間の確定)は「現実に起きて」などいなかったのです。 ただ、「ノイマン博士」が、勝手に、そう思い込んでいただけです(フォン・ノイマンが人間原理説を口にしたのは歴史的事実のようですが、数学者であるノイマンには本気で人間原理説を提唱する気はなかった…とするのが物理学者の定説のようです。)。 「ノイマン博士」が「本気で主張した」内容は、現実と妄想を取り違えたのであって、「多くの科学者や常識人から、たくさんの批判を受け」るような立派な「笑い話」だったわけです。
基本の間違い
簡単と正解の違い
で、どっちの仮説(ヨタ話)を採用しようが、予測できる結果は一緒なのだ。
「だったら、決まってるさ!
数式が簡単な方に使うに決まってる!!」
パイロット解釈が、標準解釈として採用されなかった理由は、
なにより「使いにくかった」からである。
シンプルで綺麗な数式として表現できない理論なんかに、使い道などない。
こうして、パイロット解釈の研究は、下火になっていくのであった。
「簡単な方に使う」という理由で否定されるなら、相対性理論はどうなのでしょうか。 光速に比べて十分に遅い時、ローレンツ変換式は使いません。 地球上の現象*3で、ローレンツ変換式が使われるのは、せいぜい、粒子加速器を用いた粒子の運動くらいです。 日常生活では、殆ど縁がないと言っても過言ではありません。 アインシュタイン方程式に至っては、地球上の現象に使うことは、まず、ありません。 難しいことを理由に否定されるなら、ローレンツ変換式やアインシュタイン方程式は間違っているのでしょうか?相対性理論は間違っているのでしょうか?そんなわけはありません。 「シンプルで綺麗な数式として表現できない」ことを理由に理論そのものが否定されることなど無いのです。 正しいならば、どんなに数式が複雑でも採用されるのです。 実用的に近似式を使ったとしても、そのことが理論を否定する根拠になるわけではありません。
隠した仮定
だから、可能性としては、
「生きている猫を観測する私」も存在しているし、
「死んでいる猫を観測する私」も存在しているし、
「林原めぐみと結婚している私」だって存在しているといえるのだ。*4
(だいたい、「生きている猫」と「死んでいる猫」が重なって多重に存在すること
を認めた時点で、『多世界』が出てくるのは『当然の帰結』だ。
だって、「生きている猫」の視点からみたら、「死んでいる猫」という存在は、
あきらかに『別世界にいる自分』ということになるのだから)
結局、多世界解釈は、何か特別な前提や仮説を持ち込んでいるわけではなく、
単に、同じ物質である人間(観察者)に対しても、コペンハーゲン解釈を適用しただけ
なのだから、
『コペンハーゲン解釈が正しい』と認めるならば、
『多世界解釈も正しい』と認めなくてはならない。
だから、「人間が観測したら、世界が分岐する」って発想がそもそも間違っている。
- 「生きている猫」は「生きている猫を観測する私」しか見れない
- 「死んでいる猫」は「死んでいる猫を観測する私」しか見れない
これは明らかに初期状態とは違っています。 何故なら、初期状態からその状態なら、最初から波の干渉は起きないはずだからです。 つまり、初期状態では、どちらの「猫」もどちらの「私」も同じ世界にいたはずなのです。 そして、どちらの「猫」も双方の「私」に対しても「力の相互作用」を及ぼすことが可能だったのです。 だからこそ、波が干渉を引き起こすのです。 以上をまとめると次のとおり。
- 観測後に「生きている猫を観測する私」は、観測前は「生きている猫」も「死んでいる猫」も観測可能だった
- 観測後に「死んでいる猫を観測する私」も、以下同文
しかし、「観測」後は、何故か、それぞれが干渉不可能な「別世界」に分離されてしまっているのです。 このように、多世界解釈では、明らかに観測前後で個々の世界間の干渉状態に変化が見られます。 これが「特別な前提や仮説」でなくて、一体、何が「特別な前提や仮説」なのでしょうか。 これが、「別世界」への分離でなくて、一体、何が「別世界」への分離なのでしょうか(ちなみに、後述する通り、本物の多世界解釈は「別世界」への分離を仮定しています。)。 言うまでもなく、コペンハーゲン解釈は「別世界」や「別世界」への分離など想定していないはずです。
この方は、「生きている猫を観測する私」と「死んでいる猫を観測する私」が「別世界にいる」ということには気づいているのです。 しかし、初期状態で同じ世界にいたことを見逃しています。 そのために、世界の分岐の発生を見逃しているのです。 だから、「『人間が観測したら、世界が分岐する』って発想がそもそも間違っている」と、多世界解釈で生じることになる現象を理解できないのです。 ハッキリ言えば、観測問題の本質を理解していないということです。
確かに、多世界解釈では多重の可能性は消失しません。 しかし、「私」から「観測」できなくなるわけで、この世界の「私」の視点で見れば、「観測」前にあったはずの多重の可能性が一つに収束していることには違いありません。 つまり、多世界解釈や別の解釈を持ち出しても、「私」にとっての可能性の消失、つまり、世界の分離が無くなるわけではなく、コペンハーゲン解釈の持つ不可解な問題点は解決できないのです。 そして、「特別な前提や仮説」を持ち出すことによって、コペンハーゲン解釈より問題を複雑にしてしまうのです。
喩えて言うと、X=1をどんなに複雑に変形してもX=2にはならないはずなのです。 むしろ、変形すれば式が複雑になるだけです。 単なる式の変形では答えを変えることはできません。 「多世界解釈」(本物の多世界解釈ではなく、ここで多世界解釈と呼ばれているもの)は、こうした式の変形と同じで、話をややこしくする以外の効果はありません。 そして、トリックを使ってX=1が、あたかもX=2になったかのように見せているに過ぎません。 しかし、そのトリックを暴いてみると、やっぱりX=1はX=1のままだったのです。 理数系に理解のある人ならば、式の変形トリックに相当する行為であることに気づいた時点で、無意味な理論であると一瞬にして理解できます。 そうした科学の基本的な思考法をマスターしていないという点は謙虚に受け止めるべきでしょう。
想像による新事実
両立しない?
事実3)電子1個を飛ばしたときに、スクリーン上のどこで観測されるかという確率は、干渉縞の形にしたがう。
結局、この事実3を見ればわかるように、干渉縞として見出される「波」とは、
あくまで「粒子がここで見つかるかもしれないよ〜」という「確率の波」であり、
いわゆる「海の波」などの「エネルギーを伝える波」とは決定的に違うと
いうことを忘れてはならない。
「事実3を見ればわかるように〜いうことを忘れてはならない」という記述は全く非論理的です。 どうして「事実3」が「エネルギーを伝える波」ではない証拠となるのか、その説明が全くありません。 事実、物理学者は誰もそんなことを言っていません。 例えば、マクスウェルの方程式によれば、光の波である電磁波は、まぎれもなく「エネルギーを伝える波」です。 「事実3」=確率解釈が、「粒子のような存在」と「エネルギーを伝える波」とが両立しない根拠のように言っていますが、その理由は一言も述べられていません。 というより、確率解釈は、二つの性質の辻褄を合わせようとして持ち出された仮説なのだから、それが両立を否定する根拠になるはずがありません。 確率解釈は、スクリーンに着弾する時に粒子が確率的に観測されることを示しているだけで、波が伝搬過程でエネルギーを伝えてないとまでは言っていないのです。
実験事実は、「粒子のような存在」でもあり「エネルギーを伝える波」でもある不思議な存在であることを示しています。 何故かは分からなくても、まぎれも無い事実は事実と受け止めることが論理的姿勢の第一歩です。 実験事実にない新事実を勝手に作ってしまっては、論理的な思考など出来ません。
「パイロット解釈」
「パイロット解釈」について少し調べてみました。 そうすると、この方の主張が嘘八百であることが分かりました。
それがボームの提唱した「パイロット解釈」だ!
ボームは「理論を定式化した」だけで、ここで説明されているようなパイロット波を考えたのはド・ブロイです。
実際、このパイロット解釈は、発表当時、とても注目された。
科学者たちは、拍手喝采で、パイロット解釈を、迎え入れようとしたのだ。
「やったーー!!これでやっと、俺たちは、
量子力学というわけのわからん、世界観から抜け出せるかもしれんぞ!
やっぱり、ボールはボールなんだよ。
ボールがコロコロ転がるような単純な世界観が一番だねぇ!」
これは年表を見てください。
時期 | 内容 | 人物 |
---|---|---|
1905年 | 光量子仮説 | アインシュタイン |
1923年 | コンプトン効果 | コンプトン |
1924年 | 物質波 | ド・ブロイ |
1926年 | 波動方程式 | シュレーディンガー |
1927年 | 電子線の干渉縞を観測 | クリントン・デイヴィソン他 |
1927年 | パイロット波理論 | ド・ブロイ |
1932年 | 量子力学の数学的基礎 | ノイマン |
1952年 | 隠れた変数理論 | ボーム |
1961年 | 複数電子による二重スリット実験 | クラウス・イェンソン |
1974年 | 1個の電子による二重スリット実験 | ピエール・ジョルジョ・メルリ |
年表を見て分かる通り、ここで書かれているような「パイロット解釈」は、電子の波が実証されたのと同じ年に発表されたパイロット波理論そのものです。 よって、議論する時に最初からあったわけであり、後から発表されたかのような記述は嘘です。
パイロット解釈が、標準解釈として採用されなかった理由は、
なにより「使いにくかった」からである。
シンプルで綺麗な数式として表現できない理論なんかに、使い道などない。
こうして、パイロット解釈の研究は、下火になっていくのであった。
ド・ブロイのパイロット波理論が廃れたのは、数学的裏付けがなかったからです。 ボームの理論が廃れたのは、古典力学では説明のつかない理論だったからです。 古典力学の枠に収める目的で持ち出した新理論なのに、かえって枠に収まらなくなるのでは、全く存在意義がありません。 ようするに、目的を果たせないから廃れたのです。 いずれも廃れた原因は、「使いにくかった」でも「シンプルで綺麗な数式として表現できない」でもありません。
コペンハーゲン解釈
そこで、
「電子は、観測する前は波のような存在だが、観測すると粒子になる。」
「その波は、粒子がどこで観測されるかという確率の波である。」
という新しい世界観を持ち込む必要があった。
これは、コペンハーゲン解釈ではありません。正しいコペンハーゲン解釈は、次の通り。
- 観測したとき電子は粒子状に見えるが、観測していない時は不明
- 電子は常に波で、観測すると何故か一つの点波源しか残っていない*5
コペンハーゲン解釈は、「新しい世界観を持ち込」んだりしていないのです。 ただ、実験事実をありのまま受け入れただけであって、それを説明しようともしていないし、そのために頓珍漢な珍説を持ち出したりもしていません。
科学に対する誤解
科学の要件
道具主義とは、
「科学理論の役割は、結果の予測をすることなんだから、
予測と結果に整合性さえあれば、理論は何でもいい」
という考え方だ。
ニュートンの方程式でさえ、
「重力は、物体間の距離の2乗に反比例する」という数式を
「なぜそうなっているのか」という理論的な説明もなしに
物理学の基礎として置いている。
つまるところ、人間は、
理論の正当性を決める絶対的な基準を持たない
のだから、せいぜい人間が持ちえる妥当な基準は
「人間にとって役立つ知識であるかどうか」だ。
ここまでに引用した内容と次に引用する内容が矛盾しています。
量子力学が、科学に与えた革命的な影響……。
それは、人類の科学観を
「真理探求の学問」から「道具主義的な学問」へ
と転換させてしまったことである。
科学の必要条件は、量子力学の前後で全く変わっていません。 「転換させてしまった」とするのは、この方の勝手な想像に過ぎません。 それは、この方も分かっているはずです。 何故なら、「ニュートンの方程式でさえ〜理論的な説明もなしに物理学の基礎として置いている」と認識しているのだから。
科学の必要条件とは、原理を知ることではなく、法則を見いだすことです。 もちろん、科学には、原理を探求する分野もありますが、原理は科学に必須ではありません。 何故そうなるのかは分からなくても、法則さえ導き出せれば、それで科学としての要件は満たせます。 逆に言えば、何故そうなるのか分かっても、法則が導けないのであれば、それは科学としての要件を満たしていません。 この方は「道具主義」を引き合いに出しながら、その意味を正しく理解していないと思われます。
原因がわからなければ、絶対に予測できない。
「道具主義」では、原因は必要ないのではないですか。 「ニュートンの方程式」は「理論的な説明もなし」なのに、法則として「予測」を可能にしているのではなかったのでしょうか。 それなのに、どうして「原因がわからなければ、絶対に予測できない」と断言できるのでしょうか。
「シュレディンガーの猫(4) 抽象的自我」哲学的な何か、あと科学とか
そこで、数学者のノイマン博士は考えた。
「はっ!わかったぞ!」
「どうしたんだ、ノイマン」
「謎がとけたんだよ。
いいか、まず、量子力学では、
猫は「生きている/死んでいる」という状態が重なり合って、
多重に存在している、と述べている。*6
だが、その状態を確定させる要因が、
量子力学、つまり物理学のどこにもないんだ。*7
「ああ、そうだったな」
「でも、それなのに、
『人間』が観測したときにだけ、猫の状態は決まっているんだ。*8
「ああ、そうだったな」
いいか!『人間』が観測したときだけだ!」
「ま、まさか、ノイマン!」
「そう。人間の『ココロ』が、
『多重に存在していた猫の状態』を決めたんだ!」
上記の話は、笑い話ではない。*9
ノイマン博士は、
「ココロ」や「イシキ」といった現代物理学では語れないナニカが、
可能性の決定を引き起こしている、と本気で主張したのだ。
もちろん、この主張は、多くの科学者や常識人から、たくさんの批判を受けた。
しかしだ!
物理学で想定している世界観(世界は、「ミクロの物質」と「力」で構成されている)では、
説明不可能なことが現実に起きているのだから、
これは、もう、物理学の世界では想定してしない「未知のナニカ」を
持ってくる以外にはありえない。
「道具主義」では、「説明不可能なことが現実に起きて」いようと「物理学の世界では想定してしない『未知のナニカ』を持ってくる」必要はありません。 なぜなら、原因も原理も必須ではないからです。 そもそも、「物理学の世界では想定してしない『未知のナニカ』」として、人間原理説を採用しても、やっぱり、「現実に起きている」ことは「説明不可能」のままです。 そのことを端的に表したのがウィグナー問題*10です。
コペンハーゲン解釈に対する異論は、原理が分からないことではなく、法則としての不完全さです。 確率的法則を不完全だとして不満を持ち、確定的法則を求めようとする動きこそが、異論の本質です。 従来の物理学では必ず確定的法則を導き出しており、それを放棄したのは量子力学だけです。 確かに、実用的に確率的法則を使う分野はあります。 しかし、確定的法則の存在を前提としない分野は、量子力学だけです。
「パイロット解釈」等も、求めている物は、確定的法則であって原理ではありません。 何故なら、パイロット波の正体も作られ方も説明できないのですから。 新たな解釈は、法則を確定的にするための方法論であって、原理説明をしようとする物ではありません。
公理の混同
たとえば、矛盾というのは、こんな感じだ。
1)「AはBである」
2)「AはBではない」
3)「AはBである。AはBではない。は同時に成り立たない。」
↓
結論)矛盾じゃん!
上記の場合、1)2)3)が公理だ。
公理とは、「証明できないけど、とにかく正しいんだよ!」
という暗黙の了解(思い込み)である。
でもだ。
「なんで、それじゃあだめなの?
『AはBである』『AはBでない』が同時に成り立っても、別にいいじゃん。
成り立っちゃいけないって、アンタがそういう公理を勝手に持ち出して、
勝手に作ったことでしょ?そんなのに何で従わないといけないの?」
と問い詰められたとしたら、結局のところ、
「うるさい、そうに決まってんだよ!」と言うしかない。
「だって公理なんだも〜〜ん」ということだ。
1)2)は、それ自身が「公理」ではなく、日本語の定義です。 「である」と「ではない」が同時に成り立たないように言葉を定義したから3)が成り立つのであって、それは「証明できないけど、とにかく正しいんだよ!」の「公理」とは別物です。
実際、量子力学によれば、光は「粒子」として観測されることもあれば、
「波」として観測されることもある。
だが、常識からすれば、「光」は「粒子と波のどちらかである」はずであり、
同時に成り立つことなんかありえないと思える。
でも、そんなの、光から言わせれば
「それがどーした。んなこたあ俺には関係ねぇ〜。
そんなのおまえらの考え方がおかしいんだ。」
ということになる。
量子力学には、「粒子と波のどちらかである」とする「公理」はありません。 仮に、そうした「公理」があったとしても、「証明できないけど、とにかく正しいんだよ!」ということなら、同時に粒子であり波であるとしても矛盾は生じません。 よって、その「公理」を鵜呑みにする理由は何処にもないのです。 言い替えると、その「公理」を前提として矛盾が生じるのであれば、その「公理」を疑うべきであって、辻褄を合わせるために頓珍漢な珍説を用意するのは正論ではありません。
ようするに、「「光」は『粒子と波のどちらかである』はず」という「常識」を疑わずに鵜呑みにするから、「物理学の世界では想定してしない『未知のナニカ』」が必要になるのです。 逆に言えば、「常識」を疑っていれば、「物理学の世界では想定してしない『未知のナニカ』」は必要なかったのです。
謙虚さ不足
だとすると、なぜ、コペンハーゲン解釈だけが受け容れられて、
多世界解釈の方は許されずに、科学界から総スカンを食らっているのだろうか?
やっぱり、多世界というSFチックな語感が、受け容れがたいのだろうか?
多世界解釈ファンは、
上記のような「誤解」や「心理的な抵抗感」を持っている人たちが大勢いるから、
「多世界解釈は世間に受け容れられていないのだ!」
と考えている。
自説が受け入れられないことを「誤解」や「心理的な抵抗感」や偏見等のせいにするのはトンデモの特徴です。 専門家の方が間違ってるとド素人が自信満々に言う場合は、まず間違いなく、ド素人の方が勘違いしているのです。 そんなことは、常識的に考えれば、実に簡単なことです。 盲目的に信じるから、そうした簡単な考えを思い至らないだけのことなのです。
トンデモ思想
凄い記述を見つけてしまいました。 この方、科学と宗教を区別できないトンデモさんだったのですね。
古い時代には、その公理から組みあがった理論体系に矛盾が一切無ければ、
その公理も含めて、その理論体系が正しいのだと信じられていた。
しかし、非ユークリッド幾何学の発見により、理論体系の無矛盾性が、
公理の「正当性」を表すことにはならず、
まったく別の公理に置き換えたとしても、
何ら矛盾が起きないことが明らかになってしまった。
(そして、相対性理論による空間の歪みの発見により、
むしろ現実に近いのは非ユークリッド幾何学の公理であり、
自明だったはずのユークリッド幾何学の公理が、
実際には人間の思い込みだったことが明らかになる)
「非ユークリッド幾何学の発見」は、ユークリッド幾何学を覆したわけではありません。 単に、ユークリッド幾何学が無条件に成り立つ物ではなく、一定の前提条件に限って成り立つことを示したに過ぎません。 前提条件が曖昧なまま発生する理論体系は山ほどあります。 その理論体系が生まれる時点では、前提条件を論じることが困難である場合が多く、後になって条件が整理されることは、決して、珍しいことではありません。
ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学は前提条件によって使い分ける物であって、どちらかが正しくてどちらかが間違っているという物ではありません。 それぞれの想定する前提条件においては、どちらも正しい*11のであり、非ユークリッド幾何学によって、ユークリッド幾何学が覆されたわけではありません。
「相対性理論による空間の歪みの発見」とユークリッド幾何学の是非は全くの別問題です。 たとえば、広大な歪んだ空間の中の極一部に平面が存在する*12ことを想定する*13ならば、その極一部の平面に限定してユークリッド幾何学を適用することは十分に可能です。 相対性理論は、その極一部の平面にユークリッド幾何学を適用することを禁じる理論ではありません。 このように、どのような条件を想定するかによって理論体系を使い分けるだけであって、どちらの理論が正しいかという話ではないのです。
つまり、「現実に近いのは非ユークリッド幾何学の公理」こそが、この方の「思い込み」に過ぎません。
このことの最大の問題点とは、
「適当に、好き勝手に、公理を決めてしまっても、
無矛盾な理論体系をいくらでも作り出せる」
ということなのだ。
この事件以降、あらゆる学問の理論体系は「絶対的な真理の記述」ではなくなり、
「ある一定の公理をもとに、論理的思考の蓄積で作られた構造物」
とみなされるようになっていった。
そして、それから100年後、ゲーデルが不完全性定理として、
「我々が、どんなに公理を選択して、無矛盾にみえる理論体系を構築しようとも、
その理論体系の無矛盾を 自分の理論体系の中で証明することは不可能であるため、
選んだ公理が本当に正しいのか証明することは、絶対にできません。」
と述べることによって、理論体系は完全にトドメをさされる。
現理論には未来にしか判明しない間違いが含まれているという数学や科学の宿命を示してはいるけれど、それは、過去を積み重ねて発展するが永久に完成しないということを示しているだけであって、数学や科学の成長まで否定しているわけではありません。
平たく言うと、科学が万能ではないと示しただけで、科学が無能だと証明されたわけではないのです。
「宗教とは、『神が存在する』という公理をもとにして構成された世界観である。
したがって、宗教について反論することは無意味なことである。
結局のところ、
議論の焦点は『神が存在する』という根本的な公理を認めるかどうかであり、
そもそも公理の本質が『証明不可能な暗黙の了解』であるのだから、
その公理を受け容れるかどうかの個人的な問題となり、
一般的理論的な議論は無為である。」
宗教は「世界観」であっても「理論体系」ではありません。 何故なら、「過ちを改むるに憚ることなかれ」という姿勢が無い物は、「理論体系」ではないからです。
「理論体系」であるならば、その時点で間違っていないと考えられるから一時的に採用するだけであって、間違いが見つければ、潔く、修正や棄却を受け入れます。 数学や科学はそうやって発展して来たのです。
しかし、宗教は、絶対に間違いを認めません。 過去には、宗教が、生活の都合によって変化した事例は多々あります。 しかし、間違いがあったから教義を変更したことがあるでしょうか。 少なくとも、四大宗教*14に限って言えば、そのような史実は存在しないはずです。 むしろ、創造論、創造科学、知的設計論等*15を見る限りは、教義に否定的な証拠は徹底的に潰そうとする姿勢が見られます。
「『宗教を信じること』 と 『幾何学を信じること』は、
証明不可能な公理を受け容れているという点で、本質的に同じことである。」
「本質的に〜」と言うためには、それぞれの特徴を的確に捉えて物を言う必要があります。
「証明不可能な公理を受け容れているという点」は、世の中の全ての物事に言えることであって、「宗教」や「理論体系」にだけに見られる特徴ではありません。 よって、この点は「本質」を論じる根拠になりません。つまり、この点に基づいて「本質的に同じ」という結論は得られません。
既に説明したように、「宗教」と「理論体系」は、間違いを受け入れるかどうかという点で、全くの正反対です。よって、両者は「本質的に」は全く異質な存在です。
全く違う両者の特徴を無視して、「本質的に同じ」などと言ってるようでは、疑似科学以外の何物でもありません。
本物の量子力学
「量子力学の面白さを人々に知らせようとするあまり、かえって誤解を生みだしているケースは、決して少なくありません」ということなので、通俗説には気をつけたい。 本物の量子力学は「哲学的な何か、あと科学とか」のような典型的な通俗説とはかなり違う。 有名なシュレーディンガーの猫なども、通俗説の方が圧倒的に有名で、本当の情報は極めて少ない。
- 純粋状態
- 量子力学的な重ね合わせと呼ばれる状態。
- 混合状態
- 古典力学において確率で表される状態。
- 波動関数の収縮
- 純粋状態から混合状態に変化すること。
- 量子力学的観測
- 波動関数の収縮を引き起こすこと。意識を持った観測者が認識することや、測定結果を得ることではない。
- 射影仮説
- 量子力学的観測によって波動関数の収縮が起きるとする仮説。実験と矛盾しないためには必須の仮説。
- 観測問題(狭義の観測問題 = 定義の不備)
- 何が射影仮説における量子力学的観測なのか、その条件を具体的に定義できない問題。波動関数の収縮が起きれば量子力学的観測に該当することは間違いないが、波動関数の収縮を引き起こす条件は明らかになっていない。しばしば、解釈問題と混同される。
- 観測問題(原理の問題)
- 重ね合わせから1つの状態だけが選ばれること(1つだけが特別な存在である理由)を合理的に説明できない問題。解釈問題とも呼ばれる。
- シュレーディンガーの猫
- 狭義の観測問題の具体的弊害を指摘した思考実験。量子力学の標準理論ではミクロ現象がマクロ現象に及ぼす影響を無矛盾に説明することができない…ことを示した。
- 二重スリット実験
- 単一粒子でも波のような性質を示す…とする量子力学創成期からの予測が正しいことを証明した実験。一点に存在するはずの粒子と空間的に広がりを持っているであろう波の性質が両立する不可思議な結果を示す。
- コペンハーゲン解釈
- 標準理論(1926年〜)に基づいた解釈の総称であるが物理学界の統一見解は存在しない。コペンハーゲン解釈全派閥の共通項は実験結果と整合する理論を採用することだけ。観測問題は棚上げし、道具としてのみ射影仮説を用いる。
- 人間原理的解釈
- 意識を持った観測者が認識することが量子力学的観測だとする解釈。コペンハーゲン解釈のうちの超傍流。思考実験「ウィグナーの友人」で人間原理的解釈の問題点が指摘されている。
- 隠れた変数理論
- 標準理論で記述されていない変数(隠れた変数)が観測結果を決めるとする理論。観測問題も解釈問題も回避できる。
- 「パイロット解釈」
- 英語ではDe Broglie - Bohm theoryと呼ばれる隠れた変数理論の一種で、日本語名は確立していない。1927年にDe Broglieが提唱。1952年にDavid Joseph Bohmが定式化。De Broglieが提唱した当初理論で、シュレーディンガーの猫や二重スリット実験を説明できる。発表後、否定的な証明が相次いだ。その否定的な証明を躱すため、何度か理論の修正を余儀なくされている。現在では、本来の目的から逸脱した極めて歪な理論となっている。隠れた変数理論を表した端的な言葉に「神はサイコロを振らない」(アインシュタイン)があるが、最新のDe Broglie - Bohm theoryは神がサイコロを振ることもある理論(解釈問題を解決できない理論)となっている。
- Everett解釈
- entanglement + 一貫した歴史 - 射影仮説 → 系全体の定式化。実験結果と整合しないため、厳しく批判された(シュレーディンガーの猫や二重スリット実験を説明できない)。1957年、Hugh Everett IIIが定式化。
- Consistent Histories
- Everett解釈 + デコヒーレンス(射影仮説に相当する理論)。シュレーディンガーの猫や二重スリット実験を説明できる。1984年、R.Griffithsが提唱。
- 多世界解釈
- Consistent Histories(= Everett解釈 + デコヒーレンス) + 脱干渉成分の存続。変則的な隠れた変数理論となっている。1970年、Bryce Seligman DeWittが提唱。提唱時には、デコヒーレンスは取り入れられていない。
*1 現在は、全く別の実験で局所的隠れた変数理論が否定され、非局所的隠れた変数理論のみが生き残っている
*2 「どちらか一方しか通らない」(現象B)のは波の性質を無視(現象A)した結果に生じる二次的現象に過ぎない。 現象Aが現象Bと現象C(不干渉)を引き起こしているのであって、現象Cの原因は現象Bではなく現象A
*3 電磁波そのものは完全に光速に達しているので除外する
*4 このボケをスルーするのは可哀想か?でも脱線し過ぎだしなあ
*5 波としての性質が消えるわけではない
*6 量子力学では、そんなことは述べていません
*7 「ない」のではなく見つかっていないだけ
*8 量子力学は、未観測状態については明確な答えは用意していない。よって、決まっていないとは断定できない
*9 いや、立派な笑い話です
*10 リンク先には一部間違いがある。 例えば、「君は可能性の一つなのだから他の可能性に気付かなくて当然」は明らかな間違い。 なぜなら、残った可能性とは波束のことだから、お互いに干渉しなくてはならないからである。 しかし、教授の言動がご都合主義なのは誰の目にも明らかだろうから、故意に間違った発言をさせているのかも知れない
*11 正確に言えば、それぞれの前提条件下での矛盾が見つかっていない
*12 次元を1つ落として考えるならば、円筒の表面に「直線」を引く場合、底面に平行に線を引くと円となるが、底面に垂直な方向には本当に真っすぐな直線(線分)が引ける
*13 その必要性は少ないだろうが
*14 キリスト教、仏教、イスラム教、ヒンズー教
*15 ちなみに、知的設計論とは、確率論も満足に理解できない宗教家(キリスト教右派)が、自然選択説に対して見当違いで、かつ、感情的な批判をしているだけの代物に過ぎません
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References:[考察の基本原則] [Remember11ウンチク]