考察の基本原則
考察の定義
次の二つは全く違う。
- 作者が事前に辻褄合わせを終わらせた情報を作品の中から引き出す
- 既存の作品に対して考察者が作った新規のアイデアの辻褄を合わせる
前者であれば、作者が十分なヒントを残している限り、それほど難しいことではない。 一方、後者は、作品の主要部分の重大な解釈に限定するなら、ほぼ不可能と言える。 ただし、作品の主要部分にほとんど影響を与えないアイデアであれば、比較的容易だろう。 しかし、作品の主要部分の重大な解釈に関しては、無限の猿定理と同様、都合の良い偶然は天文学的に小さい確率でしか起き得ない。 もしかすると、1億個のうちの1つのアイデアが正解となる確率でさえ、ほとんど0に等しいかもしれない。
完成したシナリオが唐突に脳内に出来上がるわけではない。 通常、人間が思いつくアイデアは、小さな断片でしかない。 小さな断片的アイデア1つでは、1ページ程度の超短編物語を作るのが関の山だろう。 商業的な作品としてまとめるには、そうした、断片的アイデアを複数組み合わせ、さらに、肉付けを施す必要がある。 その場合、一発で、作品が完成することはまずない。 途中の過程で、必ず、辻褄が合わなくなったり、重要なパーツが足りなくなったり、蛇足的な余計なパーツが生じることが何度も発生する。 問題が生じる度に、アイデアや肉付けの追加、修正、削除等の変更を余儀なくされる。 問題を一時的に棚上げすることはあるが、最終的には、作者が人為的に解消しなければならない。 ある部分の変更が別の部分の問題も解消することはあるが、作者が何もせずに問題が独りでに解消することはない。 シナリオは、こうしたアイデア出し、肉付け、検証、問題解消を繰り返す試行錯誤の連続によって産まれる。 そして、このようなシナリオ変更が許されるのは作者だけの特権である。
試行錯誤が必要なのは、考察も同じである。 やはり、全く矛盾のない考察が唐突に脳内に出来上がることはなく、まとまった考察を完成させるためには試行錯誤を繰り返す必要がある。 ところが、考察者にはシナリオを変更する権限はない。 だから、辻褄を合わせるためには、アイデアの方の変更を余儀なくされる。 そして、作品の主要部分の重大な解釈である限り、変更すべき部分はアイデアの重要部分となろう。 しかし、アイデアの重要部分を変更すべきとなると、それは、そのアイデアを捨てるに等しい。 重要部分に変更の必要のないアイデアが唐突に脳内に浮かび上がることは、猿がデタラメにタイプを打って偶然にシェークスピア並の作品が出来ることと等しいくらい、あり得ないことである。 シェークスピア並の作品を作りたいなら、猿にデタラメにタイプを打たせるのではなく、通常の作品作りの手順を踏まなければならない。 しかし、考察者には、通常の作品作りの手順が禁じられており、猿にデタラメにタイプを打たせるしか方法がないのである。 これでは、作品の主要部分の重大な解釈に関する新規のアイデアの辻褄を合わせるのは、ほとんど不可能に近い。
以上のことは、プロの作家であれば、誰でも分かっていることである。 それでも、作品の主要部分の重大な解釈に関する新規のアイデアの辻褄を合わせようと試みる無謀な挑戦者が後を絶たない。 そのような無謀な挑戦が出来るのは、作品作りの何たるかを理解しないド素人だからである。 しかし、プロの作家にも不可能なことが、どうして、ド素人に出来ると言うのだろうか。
以上のことを踏まえて、このサイトの考察では、作品に埋め込まれた隠された情報を引き出すことを原則とする。 作品の主要部分に影響を与えない瑣細なアイデアを導入することはあるが、作品の主要部分の重大な解釈に関する新規のアイデアは導入しない。 以上まとめると、このサイトで扱う考察は次の定義による。
- 「物語の解釈」がある場合は「物語の解釈」を採用する。
- 「物語の解釈」がない場合は「通常展開二次創作」のうち有力なものを優先する(有力さの差が小さい場合は、2つ以上の「通常展開二次創作」を採用しても良い)。
- 作品の解釈
- 仮説に作品中で示唆されていない超設定がなく、かつ、その仮説が成立していて、かつ、他の同等(作品中で示唆されていない超設定がない)の仮説の成立が困難。
- 通常展開二次創作
- 仮説に作品中で示唆されていない超設定がなく、かつ、その仮説が成立していて、かつ、他の同等(作品中で示唆されていない超設定がない)の仮説も成立可能。
- 超展開二次創作
- 仮説に作品中で示唆されていない超設定があり、かつ、その仮説が成立している。
- 作品を元にした別の物語
- その仮説が成立していない。
図解
まずは、図を見てもらいたい。
このサイトで求める考察は、作品の描写から最大限絞り込んだもの=図中のCとする。 原則として、EやFやGまでは絞り込まない。 何故なら、Cの範囲内であるならば、そのうちのEやFやG、あるいは、その他の可能性のうち、いずれを選ぶかは読者の自由だからである。 このサイトは、そうした個人の自由への干渉は一切しない。 ただし、Cだけでは話が分かり難い場合に限り、可能性としてEやFやGを示すことはある。
もちろん、HやIやJについては、具体的描写等を根拠に明確に否定する。 Cの範囲を明確にする以上、その範囲から外れるHやIやJが否定されるのは当然であろう。
さて、世の中には、Cまでの絞り込みでは不十分と感じ、EやFやGを求める人もいるだろう。 結末が曖昧な作品については、EやFやGでなければ満足できないと感じるのはよく分かる。 しかし、よく考えてもらいたい。 Cを求めずして、EやFやGを求めることは出来ないのである。 EやFやGを求めるためには、その過程として、必ず、Cを求める必要がある。 その過程を省略すれば、HやIやJのように考察が迷走するだろう。
考察の三大原則と五大原則
物語の条件に書いた通り、優れた作品の主要設定は全て先付け設定でなければならない。 後付け設定は実質的万能設定であり、そのような万能設定で都合良く解決するならば、人間ドラマにも寄与しないし、作者の知恵不足を露呈しているだけの、明らかな駄作である。 もし、万能設定を採用するなら、その万能設定で何もかも解決するのだから、謎は何も残らない。 つまり、万能設定を採用した時点で考察の意味がなくなる。
万能設定を用いても、自分が想像するだけなら十分に楽しい。 しかし、それは、話の流れを自分の思うようにコントロールできるからであって、想像した結果だけを聞かされる側にとっては幼稚な結末を聞かされるだけで少しも楽しい話ではない。 それは、自己満足の独り善がりな行為でしかない。 そして、そうした独り善がりな行為を見せびらかす人に限って、観客からの干渉を嫌う傾向にある。 そんなに他人に干渉を受けたくないなら人目を忍んでコッソリやれば良いのではないか。 ここでは、そうした独り善がりな行為を披露することはしない。
- 先に理屈をこね回すのではなく、まず、示唆する描写を見つける。
- 既出技術設定の枠内でのみ考察する。決して、枠を踏み外さない。
- あらゆる可能性を吟味し、安易に候補を絞り込まない。
次の2つも加えれば五大原則である。
- 万能設定や実質的万能設定にはしない。
- 解消不能かつ致命的な矛盾は回避する。
作品が駄作であることを前提とするなら、これらの原則は踏み外してもかまわない。 しかし、駄作を前提とした考察に何の意味があるのだろうか。 本当に駄作であるなら、考察などせずに、さっさと忘れた方がマシだろう。 また、駄作前提の考察では作品の質の検証にも役立たない。 つまり、作品が良作と信じるにしろ、作品が駄作と信じるにしろ、駄作前提の考察は何の意味も持たない。 よって、このサイトでは、作品が駄作であることを前提とした考察はせず、これらの原則に従って考察する。
五大原則を守るために
以下、五大原則を詳細に説明する。
示唆する描写
自作の創作理論を考察と称して披露し、その根拠を求められると、脳内での科学考証を披露する人がいます。 しかし、そのような科学考証には全く意味がない。 何故なら、その科学考証は考察者の脳内でしか通用しないからです。 創作理論である以上、それは現実の理論とは違います。 現実の理論と違うならば、考察者の脳内でしか成立しません。
ここで求められているのは、その創作理論が作中で採用されていると判断する根拠なのであって、考察者の脳内で成り立つかどうかではないのです。 どんなに支離滅裂の創作理論であろうとも、それが作中で採用されていると判断できる根拠があれば、それは正しい考察です。 一方で、どんなにそれらしい理屈の成り立つ創作理論であろうとも、それが作中で採用されていないと判断できる根拠があれば、それは間違った考察なのです。
考察において探すべきは作品が何を示しているかであって、作品をベースにしたどんな二次創作が作れるかではありません。 それがどんな物語であったかを解き明かすことと、解き明かした上で話を膨らませることは全く別のことです。 ここで言う考察とは前者です。
リプレイの重要性
考察である以上、作品本編の描写と整合しないものは除外します。 本編の描写を正確に反映するには、リプレイは欠かせません。 普通にプレイしていると自分の中でサラッと流してたりする部分がどうしてもあります。 そのせいで、見逃してしまう描写も多々あります。 そりゃそうですね。 初回プレイでは話の全体像が見えてないのだから、何に注目すべきかも分かりません。 だから、全体像が見えた時点、つまり、ひととおり終わってから、リプレイすることをお勧めします。 注意深くリプレイすると必ず新しい発見があります。 サラッと流していた所に答えがある・・・かもしれません。 無いかもしれないけど。
もし、貴方が考察に行き詰まったなら、まずは、徹底的なリプレイをすべきでしょう。 必要な情報が決定的に欠けている状態で考察を繰り返しても、正しい答えに行き着く見込みは殆どありません。 リプレイを怠って盲目的に理屈をこね回したところで、返って真実から遠ざかるだけです。 目隠しで拳銃を撃つよりは、目を開いて剣を振るった方がマシです。 急がば回れ、それが一番の近道なのです。 無理な体勢で強引に暴れるよりも、面倒でも最初に足かせを外した方がずっと楽なのです。
急がば回れ論に反発する人に限って、一度か二度リプレイすれば簡単に拾えるような描写を見逃しています。 そして、その描写に矛盾するような「考察」を発表します。 しかも、その内容が素人の独り善がりで見るに耐えないシロモノであることが多い(後述する創作理論に関する記述参照)。 矛盾が生じる原因は、リプレイを怠ったために拾いきれなかった描写を想像で補完したからです。
作者特権
先立って説明した通り、辻褄合わせのためのシナリオ変更が許されるのは作者だけの特権である。 そして、考察者が、作品の主要部分の重大な解釈に関する新規のアイデアの辻褄を合わせるのは、ほとんど不可能に近い。 ところが、駄目な考察者ほど、作品中の描写を否定してでも、自分の考案した二次創作要素に固執する。 しかし、二次創作要素を優先するために作品中の描写を否定した時点で、それは、もう考察とは呼べなくなっているのである。 もちろん、考察を捨てて、純然たる二次創作としてまとめるなら、作品中の描写を否定するのもアリだろう。 しかし、考察である以上、作品中の描写より優先する二次創作要素はあり得ない。
プロをなめるな!
プロ(実力がプロ級のアマチュア作家含む。以下同じ)は、決して、考察と二次創作を混同したりはしない。 プロであっても、読者側にいる限り、作者特権を行使できないため、作者と完全に対等になることは難しい。 プロ級の実力を身につけた作家は、プロ級の作品を制作する過程の試行錯誤を経験しているため、自然と、作者特権の有無が大きなハンディとなることを学ぶ。 だから、プロが行なう考察は、電波解釈を避け、作品の描写に沿った考察を心がける。 少なくとも、ド素人に良く見られるような電波解釈はしない。 そして、プロは、作品の描写に沿った考察で満足できないなら、思い切って考察を捨てる。 考察を捨てたプロは、完全な二次創作として新シナリオを構築し、それを「二次創作」と称する。 プロは、二次創作を「考察」と称するようなド素人の真似はしない。
考察と称して電波解釈を行なうのは、決まって、実力がプロの足下にも及ばないようなド素人である。 ド素人は、作者特権がどれだけ大きなハンディとなるか、全く理解していないから、作品の描写を軽視する。 そして、自分が考案した事実への満足感だけを拠り所にした、その出来の良し悪しの評価が二の次になっている自作の二次創作に固執する。 そんな、下の下に位置するド素人ほど、素人の書いた創作はプロの足下にも及ばないことを簡単に忘れる。 作者特権も持たず、かつ、実力でも遠く及ばないのでは、作者に全く太刀打ちできるはずがないのである。
補足
ここの文章を、他人の批評能力が欠けていることの根拠として引用している事例があったが、それは、全くの間違いである。 この文章は、下の下に位置するド素人を自認する人に対して、その人が忘れているプロとの実力差を思い出させてあげるだけに過ぎない。 「俺はプロ並の実力者」と思っている人に対しては、(その自認が正しいかどうかは別として)この文章は全く意味を為さない。
そもそも、相手の実力を見ずして、一般論的な文章だけで「お前にはプロとして通用する実力はない」と断言することはできない。 相手の実力を評価するなら、相手の描いた作品を見て批評するしかないのである。
この文章は、プロであれば誰でも知っていることしか書いていない。 お釈迦様に説法をする必要は全くないのである。 プロにとっては、「プロをなめるな!」の項だけでなく、ページ全体の記述が不要である。 この文章における「説法」の対象は、下の下に位置するド素人である。 言うまでもないが、この文章が意味することは、決して、「実力はプロ級でも、アマチュアである限り、プロには勝てない」ということでない。 ここでは、お釈迦様が絶対にしないような、ド素人に限って良くする勘違い(自分の実力も弁えずに、自分をプロと対等に思うこと)を指摘しているのである。 実力のある人が自分の実力を正しく把握したうえで、自分をプロと対等だと思うことについては、この文章の対象としていない。
何が表現されたか
先にも述べた通り、考察とは、それがどんな物語であったかを解き明かすことです。 その作品からアマチュア作家モドキがどんな印象を膨らませたかではありません。 考察とは、物語に描かれた事を読み解く事であって、描かれていない事について想像を膨らませる事ではないのです。 仮に、それが現実的にどんなに正しいことであったとしても、作品中で正しくないことならば、考察する意味はありません。 読み解くべき対象はその作品であって、現実ではないのです。
一流の作家は、作品を使って表現します。 完成された一流の作品は裏設定を必要としない。 シナリオを完結させるために最低限必要なことは作品中に表現されてなければならず、そうした最低限必要な事を裏設定に依存するシナリオは糞です。 言い替えると、一流の作品なら、最低限必要なことは作品中に全て描かれています。 たとえ、明示されてなくても、最低でも、暗示は為されているのです。 それを読み解くことが、ここで言う考察です。
よって、考察に必要なことは全て作品中にあります。 ヒントすら描かれていないことは、その作品で表現されていることではありません。 言い替えると、考察するためには、作者が残したヒント(作品内にない裏設定は含まない)が必須です。 作者がそれを示唆したと推測できる証拠が作品中にない物は、考察ではない二次創作です。 考察には、作者がそれを示唆したことを示す証拠が作品中に必須なのです。
ただし、ミスディレクションやレッドヘリングと言った、読者を惑わせる罠も仕掛けられていることに注意する必要があります。 そうした罠のほか、真相を隠すためのダミー(木を隠すなら森の中)もよく使われます。 それじゃあ、真相は分からないじゃないかと言われるかも知れないけれど、一流の作品は、罠やダミーと本当に示唆したことの違いを見分けるためのヒントも何処かに用意しています。 罠やダミーに騙されないためにも、本物の意図なのか見分けるための描写を探しましょう。
- 何を示唆する意図でその描写が用いられているか?
- ミスディレクションの可能性はないか?
先にも述べたとおり、描写を読み取るうえでの最優先事項は、作品で示唆する作者の意図(作品内にない裏設定は含まない)であって、現実的な考証は二の次です。 その描写を用いて読者をどのような認識に誘導しようとしているのか、それを読み誤っては、作品を正しく読み解くことは出来ない。 そして、それが、ミスディレクションであるかどうかも見分ける必要があります。 もし、ミスディレクションならば、何処かに、それを示唆する描写があるはずです。 丹念に描写を1つ1つ検証し、それぞれが何を示唆するのか読み解いて行けば、自ずと答えは出るでしょう。 言うまでもなく、作者の意図(作品内にない裏設定は含まない)は、ミスディレクションであるなら誤解への誘導であり、ダミーなら何も誘導せず、それ以外の場合だけ正解への誘導となります。
公式設定の優先度
何よりも最優先すべきは暗黙の基本ルールである。 基本ルールは、公式設定よりも優先される。 何故なら、基本ルールに沿っているかどうかが、作品の質を左右するからである。 基本ルールが絶対視されるからこそ、基本ルールに沿った良作も絶対視されるのである。 良作の公式設定には絶対視するだけの価値があるが、駄作の公式設定には絶対視するだけの価値はない。
公式設定と呼ばれる物にもイロイロあるが、その中で最優先される公式設定は、その作品本編である。 上位の公式設定と下位の公式設定が整合しない場合、言うまでもなく、上位の公式設定が優先される。 上位の公式設定にそぐわない下位の公式設定を破棄すると「公式設定を否定した」と言う人が居るが、下位の公式設定を優先して上位の公式設定を切り捨てる方こそ公式設定の否定だろう。
- 基本ルール
- 公式設定
- 作品本編
- 周辺商品
また、公式設定を読んだ人からの伝聞も、その人の主観的解釈に基づいているため、公式設定とは違う。 その良い例として、Infinity plusのPremium Bookのインタビュー記事を真逆の意味に解釈している人もいる。 そのような解釈は公式設定ではない。
以上のように、俗に公式設定と呼ばれている物が、本当の意味での公式設定であるかどうかは良く検証した方が良い。 また、基本ルールに反する公式設定を絶対視する必要もない。
作者談話の位置づけ
既に述べた通り、優先度は、作品本編>周辺商品(作者談話含む)である。 では、具体的には、どのような場合に作者談話が採用できるのか。
無限の猿定理で言われているとおり、ランダムにタイプして偶然にシェイクスピア作品が完成することは、宇宙の年齢に相当する時間をかけても、確率的期待値が極めて低い。 それと同じく、何者かの意図が介在しないランダムな現象では、情報が整然となる方向への変化を説明できない。 そして、商業作品で、意図を介在させることができるのは作者だけである。 よって、作者の意図なしに、情報が整然となる方向への変化は生じ得ない。
- 情報が整然となる方向への変化は、作者の意図がなければ生じない(変化量が極めて小さい場合を除く)
- 情報が乱雑になる方向への変化は、誰の意図も介さずに自然に起きうる
何を言っているのか分からない人のために、分かりやすく言い直そう。
- 作者の意図なしに、作品が独りでに完成(=整然方向)することはない
- 作者の意図があっても、その意図に沿った作品が完成しない(=乱雑方向)ことはある
具体例として、親殺しのパラドックスを例に挙げて説明する。 前提条件として、時間ループ系のシナリオで、かつ、登場人物が歴史改変のための行動を起こしている場合を想定する。
- 作者の意図に反して、自然に親殺しのパラドックスが回避(=整然方向)されることはない
- 親殺しのパラドックスを回避するシナリオを描こうとしたが描けなかった(=乱雑方向)、ということは起こり得る
作者が親殺しのパラドックスを回避していないと言えば、作品中で親殺しのパラドックスが回避されていない裏付けとなり得る。 何故なら、作者の意図に反して、矛盾のない作品が独りでに完成することはあり得ないからである。 一方で、作者が親殺しのパラドックスを回避したと言い張っても、それは、何の根拠にもならない。 何故なら、作者の意図に沿う作品が完成しないことは十分にあり得るからである。 よって、親殺しのパラドックスを回避していることを証明するには、作品中の描写で示さなければならない。 作品中の描写で証明できないならば「作者は親殺しのパラドックスを回避しようとしたが作品中で実現出来なかった」が正しい解釈となる。 以上、まとめると、次のようになる。
- 情報が乱雑になる方向への解釈は、作者談話を根拠に出来る
- 情報が整然となる方向への解釈は、作品中の描写が必須であり、作者談話だけを根拠に出来ない
たとえば、作者が「主人公=プレイヤー」と言ったとする。 「主人公=プレイヤー」は新設定の導入であり、情報が整然となる方向への解釈である。 よって、この場合、作品中にそれを示す描写が必須であり、作品中に根拠がないなら作者談話も根拠にはならない。 作者が「主人公=プレイヤー」を狙っていたとは言えるが、作品中に根拠がない以上、その狙いが実現されたとまでは言えない。 一方で、作者が「主人公=プレイヤー」ではないと言った場合は、情報が乱雑となる方向への解釈であるから、作品中の描写に関わらず作者談話を根拠にすることが出来る。
設定の枠
物語の条件で述べたとおり、主要部分に後付け設定を利用するのは駄作の証拠です。 普通、考察をするのは、その作品が良作と信じるからです。 駄作確定なら、誰も考察しようとはしないでしょう。 であるならば、駄作を前提とした考察はあり得ない。 よって、考察をするなら、先付け設定を前提とする必要があります。
先付け設定では、事前に示された制約の範囲のシナリオ展開しか許されない。 ということは、当然、考察も事前に示された制約の範囲内で考える必要があります。 制約の枠を踏み外した考察を信じるということは、その作品が後付け設定に依存している事を信じることであり、それは、その作品が駄作であると結論づけることです。 それが嫌ならば、既出技術設定の枠を踏み外してはなりません。
考察者による創作要素が入れば、それは、もう、考察とは呼べません。 それでも、その創作要素の出来が良ければ、良く出来た二次創作を作ることは可能です。 しかし、大抵の場合は、考察者による創作要素を入れることは作品を駄作に貶める結果にしかなりません。 何故なら、先にも述べたとおり、素人ではプロの創作能力には太刀打ちできないからです。 しかし、ここで、素人は勘違いします。 それは、どんなに出来の悪い創作要素であっても、考案者自身は自己満足を得ることが出来るからです。 それは、創作要素の出来が良いからではなく、やっている行為が自慰行為だからです。 そのことを自覚していないと、とっても痛いと言うか、見てて寒いと言うか、勘違いしてて恥ずかしいとか、逝っちゃってて可哀想とか、そういうことになります。 既出技術設定の枠内で考えるのは、そうした素人とプロの創作能力の差を考慮してのことでもあります。
明示されない技術設定
物語の技術設定が現実に可能かどうかを論じるための科学考証は全く意味がない。 しかし、作者の意図(作品内にない裏設定は含まない)を推測する根拠としての科学考証には意味がある。 物語の技術設定は、1から10まで全て書かれているわけではなく、明示的に示されない技術設定は推論で補完しなければならない。 作者の意図(作品内にない裏設定は含まない)したとおりに補完するためには、推論に一定の約束事が必要である。 通常、その約束事は、論理的に正しい方、科学的に正しい方を選ぶのが大原則となる。 何故なら、正しい方向は1つであっても、間違った方向は複数あるからだ。 右方向に間違えるか、左方向に間違えるか、方向が違えば、全く違う結論に達してしまう。 だから、もし、間違った方向を選ぶことを約束事とするなら、どの方向に間違えるかまで決めておかなければならない。 しかし、どの方向に間違えるかを定義するのは、極めて難しい。 それよりは、正しい方を選ぶこととした方が、簡単に約束事を定義できる。 だからこそ、正しく推測することで補完するという約束事の元に、冗長的な描写を省略するのである。
以上のとおり、明示的に示されない技術設定は正しい推論が適用されると考えられるのだが、その際、作者にとっての常識の中身が問題となる。 作者にとっての常識が、本来あるべき姿から掛け離れていると、本当の正しさと作者の認識する正しさに乖離が生じて、その結果、後付け設定が導入されたのと同じことが起きてしまう。 そこで、作者に何処までの常識を要求するかが問題となる。 個別分野の専門知識まで求めてしまうと、作家になるのは不可能に近いほど困難になってしまう。 一方で、大多数の一般人が持っている常識がないのでは論外だろう。 以上を踏まえれば、一般常識の範囲の間違いは許容できないが、専門知識の範囲の間違いは、一定程度、許容しなければならないとするのが妥当だろう。 ただし、専門知識ならば何でも許容するのではなく、常識的に考えて、物語の技術設定として明示すべきであろう部分については、明示しておかなければならない。 許容するのは、専門知識なしには明示すべき技術設定だと思い至らないような場合だけだ。
考察するときは、次のように判断すれば良い。
- 明示されない専門知識は採用されているとは限らない
- 明示されない一般常識は採用されていると推測できる
専門知識か一般常識か、明らかに分けられるような知識ならば、話は簡単だ。 しかし、世の中には、専門知識と一般常識の境界付近の知識も存在する。 そのような知識の場合、技術設定として採用されているかどうか判断に迷う。 物語中で明示されていなければ、作者の意図も分からない。 これは、考察するにあたって、非常に大きな障害となる。 考察する場合は、こうした境界付近の知識について、作者が間違った常識に基づいてシナリオを描いている可能性を想定する必要がある。 場合によっては、一般常識を誤解している可能性も想定する必要がある。
ありがちな背景設定
「明示されない技術設定」で述べたとおり、考察における疑似科学設定は、作品中に示されたものだけが許される。 その作品が駄作であることを前提としない限り、作品中で示されていない疑似科学設定は許されない。
しかし、ありがちな背景設定については、そこまで強く禁止されない。 ある程度人生経験を積んだ人なら容易に想像できるような、「そういう人はいる」もしくは「いてもおかしくない」と言える程度の設定であれば、必ずしも、作品中の明示的もしくは暗示的描写を必要としない。 とはいえ、作品中の描写に基づかない設定は好ましくない。 あくまで、作品の辻褄を合わせる上で最低限必要な範囲で導入するに留めるべきだろう。 もちろん、「そんな奴おらんやろ」レベルの荒唐無稽な設定は論外である。
多様な可能性
本編で明確に描写されていないことについては、広く様々な可能性を考慮することが重要です。 具体的根拠がないなら、敢えて、可能性を絞り込む必要はありません。 ありとあらゆる可能性を列挙しておいて、消去法を用いて、除外する合理的根拠があるものを除外して絞り込みを掛けるのであって、その前に不用意に可能性を限定するのは時期尚早です。 何故なら、根拠もなしに可能性を絞り込めば、正解を真っ先に捨て去ってしまう危険性があるからです。 最初に正解を捨てているのでは、残った物をいくら探索しても正解が見つかるはずなどありません。
これは、可能な限り既出の設定の枠内を一杯一杯使い切れという意味です。 既出の設定の枠より外に膨らんではいけないけれど、かと言って、安易に萎めてもいけない。 とは言え、技術設定を膨らませる方は作品中に根拠が無い限り絶対的な禁止事項であるのに対し、萎める方は作品内外を問わず合理的根拠があれば許されるという違いがあります。 もちろん、合理的根拠は、作品中の具体的描写である方が好ましい。 膨らませるにしろ、萎めるにしろ、合理的根拠なしに行なうのは、素人の見苦しい創作理論を披露しているに過ぎません。
実質的制約の重要性
物語の条件に書いたとおり、先付け設定を必要とするのは、万能設定を回避し、一定の実質的制約を課すためです。 読者の知らない設定を出してピンチを切り抜けるのでは何でもアリになります。 実質的な制約があってこそ、制約を乗り越えようと登場人物が奮闘する人間ドラマにも深みが出るし、反則なしの作者の知恵にも感心するのです。 ピンチとチャンスが交互に来るようなタイム・スケジュールを機械的に実行しているだけでは、ちっとも面白くありません。
そして、制約には、実質的な意味が必要です。 形だけの制約なら、万能設定と何ら変わりません。 それは、実質的万能設定です。 作品を駄作に貶めたくないなら、万能設定も実質的万能設定も追放する必要があります。
辻褄合わせは必須
勘違いしやすいことですが、辻褄合わせは、物語の描写に対して行なうのであって、現実に対して行なう必要は全くありません。 どんなに現実的にあり得なくても作品で明示されたルールは絶対です。 そのルールに従えないなら、フィクションを読む意味はありません。 現実にない話だからこそ、フィクションの意味があるのです。 ハリーポッターが魔法を使うことに対して、非現実的だと文句を言う人はいません。 フィクションとはそういうものだからです。
大事なことは、作品の中で明示したルールがその作品の中で矛盾しないことです。 どんなルールにするかは、作者が一方的に決めることができます。 それは、作者の特権です。 しかし、作者であっても、一度でも明示したルールを覆すことはできません(ただし、暗示したルールは覆すことができます)。 そして、先付け設定の原則に従い、明示したルールの枠内でシナリオを展開しなければなりません。 先に明示したルールと矛盾することは許されないのです。
もし、矛盾を許容するのであれば、それは、矛盾しても差し支えないという後付け設定を導入しているのと同じです。 小難しい説明を延々としておいて、最後には矛盾を許容すると言うなら、それまでの小難しい説明は、一体、何だったのでしょうか。 理屈を重視し、矛盾を許容しないからこその小難しい説明であるはずです。 それなのに、矛盾を許容するのでは、【理屈を重視し、矛盾を許容しない】という設定を後から覆しています。 これは明らかに後付け設定です。
先にも説明したとおり、駄作ではないと認めるからこその考察であるなら、このルールは考察にも適用されます。 ただし、1つだけ例外があります。 それは、作者の些細なミスである場合です。 もちろん、その場合、作者がミスしたと考えるだけの合理的根拠が必要です。 そして、その作品が駄作とならないためには、作者のミスは、物語の核心部分に影響を与えない些細なものでなければなりません。
やってはならない間違い
結論を先に決め、それを裏付ける根拠を後付けする・・・という行為は間違いの元である。 そのやり方では、結論を客観的に評価できないので、間違いを過大評価して、正解を見落としやすい。 自分を納得させる根拠をこじつけることは、それほど難しいことではない。 余程のことがない限り、どんな結論に対しても、コジツケ根拠はいくらでも用意できるだろう。
自分で用意した根拠がコジツケだと自覚している場合はまだ良い。 しかし、結論先行方式に頼る人は、大抵、自覚していない。 いや、気づかないからこそ、結論先行方式に頼るのである。 結論先行方式に頼ってコジツケ根拠をいくら用意しても、それは何も証明しない。 コジツケだと自覚があれば、それが意味のない行為だと気づけるはずである。 結論先行方式に頼っているのは、その方式に一定の意味を見出しているからだ。 それならば、コジツケ根拠だという自覚がないことになる。
結論候補が多数あるならば、結論先行方式では、その中から正解をつかみ取れる確率は低い。 しかし、一度つかみ取った候補には、コジツケ根拠を用意できる。 そして、コジツケ根拠だと自覚がないのであれば、それは強い信仰を生み出す。 信じきっている以上、つかみ取った候補が間違いだったとしも、間違いから脱却することが難しい。
以下、コジツケ根拠の事例を挙げる。
複雑化
まずは、キバヤシ君アナグラム・コピペを見てもらいたい。
おれたちはとんでもない思い違いをしていたようだ。これを見てみろ。
まず「○○○」をローマ字で表記する。
「#$%&@*」
これを逆にすると
「*@&%$#」
そしてさらにこれを日本語に直すと
「□□□」
△△△が▲▲▲ということを考え末尾に「×××」を加える。
「□□□×××」
そして最期に意味不明な文字「□□□」
これはノイズと考えられるので削除し残りの文字を取り出す。
すると出来あがる文字は………「×××」
「○○○」とは×××を表す言葉だったのだ!!
まじめに解説するのも馬鹿馬鹿しいが、これは、一種のコジツケ根拠をパロディー化したものである。 このコピペでは、最初の文字列が何であるかや、アナグラムのやり方が何であれ、結論は必ず「×××」になる。 後から加えた文字列だけを恣意的に残そうとしているのだから、最初や途中は結論に全く関与するはずがないのである。 これは、ネタになるほど極端な事例だけれど、これを笑えない類似の考察モドキをする人は少なくない。
極力単純に考えた方が、間違いが少なくなる。 可能な限り単純化できるように考えるのが論理的な近道であり、 不要な項目を付け足すことは無用な遠回りに過ぎない。 それは、間違った結論に誘導しているだけである。
弱者連合の結成
複数の候補を組み合わせて、1つの候補連合とすることは差し支えない。 ただし、その場合の候補の組み合わせには、合理的理由が必要である。 特定の候補を否定する目的、あるいは、特定の候補を肯定する目的で、 恣意的に弱者連合を結成して有力候補連合を装うことは、コジツケ根拠である。
妥当な候補の分け方について、具体例を用いて定義する。 前述した他の候補と並立させるのが妥当な場合とは、妥当な候補の分け方に基づいていて、かつ、各候補の確度が遜色無い場合に限られる。
- X=0かつY=0・・・【候補1】→確度27%
- X=0かつY=1・・・【候補2】→確度33%
- X=1かつY=0・・・【候補3】→確度18%
- X=1かつY=1・・・【候補4】→確度22%
この事例において、【候補1】と【候補2】と【候補3】+【候補4】(確度40%)を比較して、【候補3】+【候補4】を最有力候補とするのは妥当ではない。 というより、そのような候補の分け方は不自然である。 というのも、Yの値が違うケースを同一候補とするか別候補とするか、Xの値に応じてやり方を変える合理的理由がないからである。 合理的理由なしに不自然な分け方をすれば、確度の低い方を有力候補とするために、弱者連合を形成することで無理矢理に根拠をこじつけているように見える。 この事例では、Xの確度はYの影響を受けず、かつ、Yの確度もXの影響を受けないから、明らかにXとYが独立した項目であり、両者は切り離して考えるべき問題であり、項目を切り離して、それぞれについて候補を検討するのが妥当である。
ただし、XとYの値に相関性がある場合は、例外となる。 例えば、次のような事例では、XとYの値に相関性がある。
- X=0かつY=0・・・【候補1】→確度36%
- X=0かつY=1・・・【候補2】→確度24%
- X=1かつY=0・・・【候補3】→確度 8%
- X=1かつY=1・・・【候補4】→確度32%
この事例において、項目を切り離して、それぞれについて候補を検討すると、Xについては0が60%、Yについては1が56%となる。 よって、項目を切り離した場合は【候補2】が最有力候補となる。 しかし、Xが0のときはYの確度が逆転(0が60%)し、Yが1のときもXの確度(1が80%)が逆転する。 このため、4つを並べた場合の最有力候補は【候補1】であり、項目分離時に最有力となる【候補2】は3位でしかない。 このように、相関性が見られる場合は、項目を切り離して検討するのは、必ずしも、妥当とは言えない。 相関の弱い場合は切り離して検討し、相関が強い場合は項目を一緒にして初めから4候補で検討するのが妥当だろう。
勿論、この事例においても、【候補1】と【候補2】と【候補3】+【候補4】を比較するようなやり方は妥当ではない。 この事例においては、突出して確度の低い【候補3】だけを切り捨て、【候補1】【候補4】【候補2】の順で有力候補を並立したまま、結論を持ち越すのが妥当な判断だろう。
ランク分け
考察の確度を次のようにランク分けします。
- A+
- 先付け設定の枠内には収まり、かつ、それが唯一絶対の答えと言い切れるだけのほぼ確実な証拠がある
- A
- 先付け設定の枠内には収まり、かつ、それが最も有力な答えと考える比較的確実な証拠がある
- B
- 先付け設定の枠内には収まるが、それが確実だと言える証拠はない
- C
- 先付け設定の枠内からはみ出る
- C−
- 間違っていると言える、ほぼ確実な証拠がある
ランクC以下でも、個人的に信じるのは自由です。しかし、他人と議論するなら、ランクB以上でなければ意味がありません。また、ランクB以下の仮説は、他にも同ランクの仮説が存在し得るため、それが唯一の正解だとするだけの説得力に欠けます*1。よって、他者を説得するには、ランクA以上であることが必須条件となります。
このサイトは、原則として、ランクA以上を対象として記述します。
論理的思考方法
論理的考察の基本は単純です。
- 動かぬ証拠があるなら、きっと、真実だろう
- 解消不能な致命的矛盾があるなら、きっと、間違いだろう
しかし、こんな単純なことでも、いざ、やろうとすると出来ないものです。 何故出来ないのか、どうすれば出来るのか、を考えてみましょう。
意識
論理的思考の第一歩は無意識の思考を有意識化に置くことです。 何となくそう思うのは論理的ではありませんが、何故そう思うのかを考えるのは論理的思考の第一歩です。 無意識の思考は、あやふやで、その時々の都合で従うルールがブレてしまいます。 しかし、意識して思考すれば、明確な論理的ルールに基づいて、常に安定した思考を行なうことができます。 そして、論理的思考の達人になれば、自己の都合まで完全に無視して、論理的ルールだけに基づいた思考ができるようになります。
割り切り
答えが見つからないからと、急いで早まった結論を下してしまうと、考察は迷走することになるでしょう。 具体的な事実を元にしていても間違える時は間違えるのです。 だから、具体的な事実に基づかない想像であれば、もっと間違いを冒す危険性は高くなります。 焦らず冷静に、その時点で分からないことは、分からないと素直に認めることが大事です。 もしかすると、その時点だけでなく、永遠に謎のままになるかも知れません。 しかし、それでも、焦りは厳禁です。 根拠なく可能性を狭めることは、正しい考察に近づく可能性より、正しい考察への道程を閉ざすことになる危険性の方が高いのです。
単純化
極力単純に考えた方が、間違いが少なくなる。 単純で済む話を複雑にしても得られる物は何もない。 それは労力の無駄であり、かつ、間違いの余地を増やしているだけに過ぎない。 たとえば、X=Yという方程式があるとする。 これを、X+α=Y+αやβ×(X+α)=β×(Y+α)といった具合に複雑に変形を繰り返しても、何も変わるはずがない。 もし、何か変わったとしたら、どこかで計算ミスをしているのである。 いや、そうした計算ミスを故意に誘導しているならば、キバヤシ君アナグラム・コピペとやってることは何ら変わりない。 正確さを追求するならば、元のX=Yの形が最も優れている。
合理的理由
ゲーム本編を無視していては、どんな内容であろうとも、考察とは呼べません。 ゲーム本編を元に、ああでもないこうでもないと考えるから考察なのです。 ゲーム本編との整合性は考察の必須条件です。
ゲーム本編に整合性のある合理的理由としては、詳細な描写に隠された意図を探るのが正攻法です。 しかし、「最終シナリオにふさわしいどんでん返しは何か」という手法もあり、これには目から鱗でした。 とにもかくにもゲーム本編を無視しては話になりません。
詳細な描写
画期的な新説と突拍子もない珍説は全く違う物です。 そう考えるだけの合理的理由に基づいて考え出される物が「画期的な新説」なのであって、理由もなく唐突に生み出される物は「突拍子もない珍説」に過ぎません。 過去、人類の歴史の中で、多数の「画期的な新説」が成功を収めて来ましたが、「突拍子もない珍説」が成功した例は一例もないと断言できます。 地球球体説、地動説、ピサの斜塔の実験、相対性理論、量子力学、そのいずれもが、合理的理由に基づいて考案された物であり(相対性理論の合理的理由は論理的間違いの実例part5で詳細に説明します)、決して、理由もなく唐突に生み出された物ではありません。 そのことを正しく理解していない人は、量子力学に対して変な誤解をしたりします。
これは、考察においても同じことが言えます。 何故なら、高度な思考に基づいた謎をヤマ感で的中させることは、まず、不可能だからです。 そう易々とヤマ感が当たるようでは、謎が単純すぎます。 手掛かりを元に論理的に推測しても外れることがあるくらいだから、手掛かりなしの想像が偶然当たるなんてことは、まず、起こりません。 手掛かり無しに作者の考えが手に取るように読めると思うなら、それは、ただの妄想です。 この世において、他人の考えほど予想外の物はありません。 それを手掛かり無しで推測するのは不可能と言って良いくらい困難です。 ヤマ感が当たらないからこそ、証拠に基づいて論理的な思考をする必要があるのであって、それは、正に、「突拍子もない珍説」=ヤマ感と対局にある「画期的な新説」を模索する作業そのものです。
考察の第一歩は、まず、手掛かりとなる何らかの具体的描写を見つけることです。 基本的に、シナリオライターは読み解いてもらうようにシナリオを描きます。 だから、随所にヒントを埋め込んでいます。 しかし、最終的には読み解いてもらうことを前提としていても、最初から完璧に読み解かれては困ります。 だから、意図的に惑わすような意地悪な描写も埋め込まれています。 それらの描写について、どのような意図が込められているのか、詳細に検証することが大事です。 それが、読み解くためのヒントなのか、それとも、惑わすための罠なのか、その意図を読み違えると考察は迷走するでしょう。
因果関係
二つの事象が描写されている場合、それらに関連性があるかどうかは、同時に描写されているという事実からは分かりません。 どちらかが原因でどちらかが結果であるのか、時期が一致しただけで関連性が無いのか、どちらが正しいのかは、それらの描写を詳細に検討しなければ分かりません。 根拠もないのに原因と結果の因果関係を決めつけてしまうと、考察は迷走するでしょう。
辻褄
考察において、シナリオの辻褄は非常に重要です。 作者の考え(作品内にない裏設定は含まない)と推測するだけの確実性と、作者がそうした間違いを冒す可能性、両者を天秤にかけて判断することが大事です。 言い替えると、作者の考え(作品内にない裏設定は含まない)を示す動かぬ証拠がある場合を除き、シナリオとの辻褄が合わない考察は致命的です。
さて、次は正しいでしょうか?
- A=B
- B=C
- よって、A=C
さて、次はどうでしょうか?
- 条件1ではA=B<C
- 条件2ではA<B=C
- よって、条件1でも条件2でもA<C
後の事例の一部を隠すと最初の事例になります。 このように、前提事項等を隠すと、全く、違う結論になってしまうことは珍しくありません。 物事を論じる上で、前提事項は非常に大事です。 最初の事例で言えば、A=BとB=Cが同じ前提条件で成り立たなければ、A=Cにはなりません。 これと同様の論法を使う時は、前提事項をそろえる必要があります。
考察において、前提事項がブレると、一見、全ての辻褄が合っているように見えるヘンテコな考察をしていまうことになります。 そのヘンテコな考察では、個々の前提事項を統一すると、全く辻褄が合わないということになりかねません。 しかし、そのような考察をよくやってしまうのです。 人は、しっかりと意識していないと、前提事項を忘れてしまう生き物です。 とくに、他のことに気を取られると、コロッと忘れてしまいます。 だから、常に基本に忠実に、踏まえておくべきことはしっかり踏まえておくよう意識しましょう。
体系的な整理
具体例だけを列挙していては、考察は迷走します。 人は神ではないのだから、自分にとって想定外のこともあるのです。 想定の範囲内に答えがあると決め付けていては、真の答えには辿り着けません。 真理を見いだすには、想定内と想定外を適切に比較する必要があります。 しかし、具体例の列挙では、想定外のことを挙げることが出来ないため、想定外を適切に評価することが出来ません。 想定外の可能性を客観的に評価するには体系的な整理が欠かせません。
要素整理
体系的な整理とは、細かい具体例を1つ1つ挙げるのではなく、個々の要素に基づいた大まかに場合分けをすることです。 例えば、ある人物がトムなのか太郎なのか花子なのかと考えるのは具体例の列挙です。 これに対して、その人物が男か女か、大人か子供か、日本人か外国人かと考えることが体系的な整理です。 もし、その人物が地球人類であるならば、両性具有などの一部の例外を除き、男でなければ女であるはずです。 男か女かに限定するのが嫌なら、両性具有、性同一性障害等も考慮に入れれば良いでしょう。 しかし、大まかな枠組みとして場合分けする限り、取りこぼしは回避し易くなります。 犯人探しの場合、この場に居る人物か、それ以外かでも良いでしょう。 一方で、トムなのか花子なのかと具体的に考えると、マイケルの可能性を取りこぼすことがあります。
このように、具体例を挙げていくと、どうしても、全ての具体例を思いつくことは難しく、取りこぼしが発生し易くなります。 しかし、大まかな枠組みで体系的な整理をすると取りこぼす可能性は低くなります。
例を挙げて説明しましょう。 Remember11の時計台で優希堂悟を突き落とした犯人を考察するとします。 様々な可能性を追求すると、次のように場合分けされます。
- 日常的現象である可能性*2
- 人知を超えた非日常的現象
- 人類以外の生命体の存在
- 生命体ではない何らかの非日常的現象
ここで、たとえば、人類以外の生命体が火星人なのか土星人なのか・・・と論じるのは、後回しです。 大まかな枠組みとして、人類以外の生命体の可能性があるのかないのかを論じるのが先決です。 もし、初めから、火星人や土星人などの具体例で論じてしまうと、地底人の可能性を取りこぼす危険性があります。 しかし、具体例ではなく、上で述べたような体系的な整理をすると、その場では思いつかなかった具体例についても評価対象とすることができます。
要素の分離
体系的な整理をすることは、混同を防ぐ上でも重要なことです。 体系的な整理をすることによって、個々の要素が分離されるため、それらの関係をも整理し易くなるのです。
単純な仮説Aと複雑な仮説Bがあり、仮説Bが仮説Aを内包している場合を考えます。 これは言い替えると、仮説Aにイロイロ付け足すと仮説Bになるということであり、付け足し部分をCとすると、B=A+Cが成り立ちます。
さて、ある描写が、仮説Aが正しい証拠となっている場合を想定します。 そして、その描写が仮説Bとも一致するとしましょう。 この場合、その描写は、Cが正しい証拠にも、間違っている証拠にもなっていません。 可能性としてCもあり得ることを示しているだけであって、Cが正しいことを証明しているわけではありません。 よって、仮説Bも完全に証明されたわけではなく、その一部である仮説Aが証明されたに過ぎません。
次に、別のある描写が、仮説Bが間違っている証拠となっている場合を想定します。 この場合、その描写は、仮説Aまで否定しているのでしょうか。 いや、もし、その描写と仮説Aが一致するなら、それは、Cが間違っている証拠とはなっても、仮説Aが間違っている証拠とはならないはずです。
このように、単純な仮説と複雑な仮説は区別して検証しないと、結論を誤る危険性があります。 仮説を検証するときは、より単純な仮説の単位で検証のまな板に載せることが重要です。 これをオッカムの剃刀と言います。
必要性
原則、分からないことは保留する。 それが正しい考察法ですが、例外はあります。 その条件は、必要性と整合性のバランスです。 物語の考察に欠かせない重要な部分であれば、必要性は高くなります。 そして、必要性が高ければ高いほど、整合性には妥協する余地が高くなります。 もちろん、その前に、ありとあらゆる描写等を漁って、可能な限り整合性を追求することが大前提です。
思い込み
思い込みは、しばしば、論理的な思考を妨げます。 そして、思い込みに思考を左右されている人は、大抵、自覚症状がありません。 ここでは、そうした思い込みの具体的事例を挙げて説明しましょう。
納得
人は、納得できない話に、しつこく食い下がります。 一方で、納得できる話には、アッサリ引き下がります。 しかし、それこそが、間違った判断を下す原因です。 もっともらしい嘘もあれば、嘘臭い本当もあります。 納得できるかどうかと真実かどうかは別次元の問題です。
抽象論に納得するのは、単にだまされて丸めこまれているだけです。 論理的思考が身についていない人は、感情的な理由で納得してしがちです。 だまして丸めこむのが上手な人は、決して、論理的な説明はしません。 論点を整理することなく、抽象論に終始します。 疑問に思われそうなことは、少しずつ小出しにします。 一カ所に集約させずに全体に広げて薄めることで違和感をぼかすわけです。 ぼかしようがない部分は、誰もが混同しやすい屁理屈でかわします。 そして、聞き手が喜ぶ要素を取り入れて、信じたい気にさせれば一丁上がりです。 人は、それが正しいかどうかより、信じたいかどうかで、納得するしないを決める傾向があります。
一方で、どんなに非の打ち所のない話でも、人は、納得できなければ受け入れません。 思い込みや勘違いから来る違和感、個人的嗜好から来る嫌悪感であっても、納得できない要因には妥協しようとしません。 これは、相対性理論や量子力学に納得できないのと同じで、自分が常識だと思っていた固定観念に合わないから納得できないだけです。 しかし、動かぬ証拠があり、かつ、矛盾がない以上、間違っているのは固定観念の方だと考えるのが妥当です。 それでも固定観念が捨てられないのは、頭が固いからです。
論理的思考が身につけば、論理的な正否に従って、納得したりしなかったりするようになります。 論理矛盾に違和感を感じる一方で、論理矛盾がなければ違和感を感じません。 しかし、論理に慣れていない人は、論理的正否に全く関係なく、納得したりしなかったりします。 論理矛盾があるのに納得したり、論理矛盾がないのに違和感を感じたりします。 論理慣れしていても直感が外れることはあります。 論理慣れしていない人であれば、納得を基準に判断するのは大間違いの元です。
この実例は論理的間違いの実例part2で紹介します。
固執
人は、ある結論の証拠が崩れても、その結論にしつこく固執します。 そして、「間違ってる証拠もないじゃないか」と詰め寄ります。 しかし、その主張は全く無意味です。
最初からもう一度考えてみましょう。 何故、その結論を支持したのでしょうか。 それは、証拠があったからです。 証拠があったからこそ、他の可能性とは一線を画する特別な結論だと思ったわけです。 しかし、今や、その証拠は完全に崩れてしまいました。 証拠がないのだから、証拠がない他の可能性とドングリの背比べになったわけです。 つまり、多数の候補の中でひとつだけが特別と考える理由がなくなったということです。 それなのに、ひとつだけを特別扱いするのは、極めて非論理的な行動です。
人は自分が見つけた答えに固執します。 しかし、作者は、それを逆手に取って真相を隠します。 やや、見つけにくい所にダミーの答えを隠しておけば、何人かの人は、それに気がつくでしょう。 そして、それを見つけた人は、自分が見つけたという事実に陶酔し、真相が見えなくなってしまうのです。 ようするに、「俺って天才じゃね?」と自意識過剰に陥るわけです。 とはいえ、自意識過剰は誰にでもあります。 過剰な自意識を自覚し、自らと闘える人だけが、真実への道を探し当てることができるのです。
前提事項
前述したように、考察において、前提事項がブレないことは非常に重要です。 人は、結論に固執してしまうと、無意識のうちに自分の希望する結論へと誘導しようとして、その時々に都合の良いように前提事項をコロコロ変えてしまいます。 そうして、前提事項のブレた考察が出来上がるわけです。
この実例は論理的間違いの実例part1と論理的間違いの実例part3で紹介します。
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